2023年07月28日更新

眼鏡からアクセサリーまで。赤塚ベッ甲の二代目、顕さんはスマートで都会的な職人だー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.50

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は朝倉彫塑館のならびにある赤塚ベッ甲製作所へ。(編集部)

父の元で15年間修業。土地も道具も残してくれた


朝倉彫塑館のならびにある。その昔、ここのウィンドウにきれいな鼈甲眼鏡があって、一緒に歩いていた写真家のアラーキーこと荒木経惟さんが、「む、これいいな」といって即座に買ったのである。「森さんにもなんか買ってあげよう」とお花の形のブローチをもらった。男性にアクセサリーを買ってもらったのは後にも先にもこの一度だけだ。

「おぼえてますよ。あれ、僕がこの道に入ってすぐの頃」

赤塚ベッ甲さんは雑誌「谷根千」の2号目から広告を出し、最後まで置いてくださっていた。お父さんの博さんはもう少しふっくらした無口な、いかにも職人という感じだった。息子の顕(あきら)さんはスマートな、都会的な感じだ。

「父は震災の翌年に70歳で亡くなりました。がんが1月に見つかって、半年はもちませんでした。父は昭和16年生まれ。新潟の燕市の出で、小さいときに両親とも亡くなって。中学を出て、高校も少しは行ったらしいけど卒業しないで、とにかく東京に出たかったらしい。母も同じ新潟の出身です」

――お父さんのお師匠さんは?

「上京した父は、この近くの相沢さんのところに弟子入りして、住み込みで修行しました。相沢さんにはすごくよくしていただいたようです。奥さんもやさしい方で。休みの日は根津の映画館に連れて行ってもらったり、お得意さんも分けていただいたらしいし。

いまは相沢さんのところも息子さんが継いで、鼈甲の時計のバンドとか、アクセサリーとか、ユニークなものをつくってらっしゃいますよ。素材の使い方も独創的です。

大澤鼈甲さんも相沢さんからの分かれです。もうお一人、西日暮里のほうにも文京区から移っていらした田中さんがいて、この辺で4軒ですね」

――他の地域と比べてずいぶん多いですね。

「これでも減ったんですよ。東京で組合に加盟しているのは20社くらいですかね。組合があってみんな知り合いです。全部一品ものなので、競合はそんなにしませんね。父が独立した頃は注文がひっきりなしで、お互い仕事を紹介し合って。あとは長崎にも職人さんが多いです。それと大阪。

父は10年くらいで独立して、所帯を持ってこの路地の奥のほうにいたんです。ここにあったいろは煎餅のおばあちゃんが店じまいするので、父は譲ってもらった。とにかく土地を買って一戸建てを建てなくちゃという思い込みがあったらしい。いい時代だったし、今思えば土地も道具も残してくれて有り難かったですね」



——顕さんはどうやってこの職業に就いたんですか。最初から継ぐ気でしたか。

「子供の頃はそう思ってました。でも、いろんな職業に憧れて、お医者さんにもなりたかった。『ブラック・ジャック』が流行っていた頃ですから。もう少し数学が得意ならね。勉強は嫌いではなかったですが。

谷中小学校、上野中学、そして高校から法政の附属に行ったので、そのまま法政大学に入り、社会学部だったので八王子まで通いました。いったんは一般企業に就職したんだけど。本当はジャーナリストになりたかった。でも、真実を伝える仕事は影響が大きいし、結構責任が重いな、それを自分が負えるのかと思って、結局マスコミは受けませんでした。

高校は服装も自由で、大学4年間も好きなことやっていました。会社員というのはどうも性に合わなかった。それで、父に後を継ぐと言って。やれともやめろとも言わなかった。23からはじめて、いま50ですからもう26年やっていることになる。でも15年くらいは父から仕事を教われました」

――お父さんの仕事を見てたら、やっぱりいいなと思われた?

「そうですね。ちょうど大学生のときに(べっ甲の素材となるウミガメの甲羅が)輸入禁止になったんですね。そういうのもあって、やれる人もいなくなってくるし、この仕事を遺せればという思いもありました。

父は淡々と仕事をしていて、基本、褒めたりはしなかったですね。でも自分の仕事だけが正しいと押しつけることはなくて、私が修業しているときも、他の職人さんのところに連れていって、仕事を見せてもらったりもしました。だからといって、それをまねしろとか、するなとかも言わないし、いろんなところを見て、自分で考えろ、と」



——だいたい何年やれば一人前になるのですか。

「まあ5年くらいですかね、父が不得意なところ、たとえば、昔は分業だったので、眼鏡のテンプルに金属を埋め込む加工なんかはよそに出していたわけです。そうした仕事は父の仲間の職人さんから教えていただきました。いまは自分でやらないといけないので」

――少し工程を教えてもらえますか。

「材料は、玳瑁(タイマイ)というウミガメの甲羅ですね。まずはプラスチックでつくりたいものの型をつくり、それを鼈甲の上に載せて細い金属であたりをとり、糸鋸で切り出します。場所によって厚みが異なるので、その厚みを均等にするように薄いところに足して、一定の厚みになるように水と熱と圧力で接着していきます。それを曲げたりしながら、成形していく。色合わせとかにも気を遣います。



アジアには鼈甲の性質を利用して食器とか、調理器具、お玉みたいなものをつくっていた民族もある。またヨーロッパの貴族の衣装などにも鼈甲があしらわれています。

日本にも輸入で入ってきて、それを加工する職人がおり、その工程を描いた『玳瑁亀図説』という江戸時代の本が復刻されています。作業場や道具なども描かれていますが、意外とそのころから変わっていませんよね。道具は、糸鋸と小刀、あと雁木やすりという道具は、鼈甲を扱う人しか使わないでしょうね。



古くからでは、かんざしや櫛などの髪の装飾品、帯留めなど、これらは今も数は少ないですが、芸者さんとか、和服を着る方からの注文があります。また特殊なものでは津軽三味線のばちは鼈甲と決まっています」



だらだら仕事はせず、休むときは休む


――お店の中をゆっくり眺めてると面白いですね。眼鏡もいろいろ。

「昔は政治家なども結構鼈甲ぶちの眼鏡を掛けていたんです。でも、今はかけているだけで動物虐待だとか自然保護団体が言い出すので、皆さん持っていてもかけない。池田勇人さん、小渕元総理などは鼈甲眼鏡がトレードマークでした。後藤田正晴さんの眼鏡は父がつくったと聞いています。

鼈甲眼鏡のコレクターという方もいらして、その方から見せていただいた見本で同じようなものをこしらえたりしたこともあります。これは昔のものを再現してつくっているから、ちょっと特殊なんですけど、ねじを使わずにクジラのヒゲでつくっているんです」

——へえ。眼鏡に取りかかったらずっと眼鏡ですか。

「はい。結構手間がかかります」

——うまくいかないこともありますか。

「もちろん。うまくいくときは段取りもよく、すいすいとできあがる。一度うまくいかなくなると、あれこれやり直しても結局、納得のいくものはできない。そういうときは無理に続けずに、やめて作り直す方が早い。どっちみち、材料はまた何かに使えますから無駄にはならないんです。その合間に、イヤリングとか指輪とか、小さなものをつくります」



——その仕事の時間のやりくりとか、めりはりをつけるのが大変でしょう。

「そうなんです。だらだら仕事をしないほうがいい、休むときは休め、といわれました。ですから日曜は休みです。あとの日は朝8時半ごろから始めて、夜は仕事の納期などに合わせて、時には夜中までやっています」

——お父さんもそうでしたか。

「そうですねえ。うちは母親も磨きとかは手伝っていました。玳瑁はそのままではつやがないんです。それでできあがったら、オイルをちょっとつけて磨くんです。昔は女性の職人はいなかったんですが、いまは西日暮里の田中さんのところはお嬢さんが後を継いでいますね」

——竹籠は伝統工芸展とかあるらしいですが。

「僕たちは職人であって芸術家ではありません。頼まれたものを忠実につくるのが第一です。ときどき自分の工夫で遊び心のある物をつくったりしますが。

でも、あんまり高くないものが常に売れているのがいい商売な気がする。高価なものが売れてそれに頼り切りになっちゃうとね。昔はお彼岸でお墓参りに来たときに買って、そのあとも来てくださるということがあったけど、いまは観光地化していて、お客さんの層も変わりましたね。お彼岸の人の少なさというのは年々感じます」

――材料はどこから仕入れるんですか。ワシントン条約で規制もあって大変でしょう。象牙の牙彫というのも谷中派というのがあったくらい、この辺に多かったようですが。

「そうですね。でも象牙よりは厳しくありません。象牙を扱うには登録が必要で登録料もかかりますし。

鼈甲は、組合でせりをやっているのと、あとは各自玳瑁のストックは持っています。ただ、材料の量としてはあるけど、この色がだんだんできなくなってくる、というのはありますね。黄色い材料とか、真っ黒とかは意外と少ないので。

いま石垣島で養殖もしてるんです。象牙は養殖できないですから、材料の調達も大変ですね。

ただ、外国人の観光客にはお売りできません。国外へは持ち出しは禁止されていますので。日本在住の外国人が日本でかける眼鏡とか、日本人にプレゼントするためにお求めになるのはいいのですが」

——へえ、赤塚さんは眼鏡がお得意なのですか。

「一応、眼鏡をメインにつくっています。父もそうでしたが、眼鏡は一定の方が買ってくださいますから。フランスでは、フランス人で鼈甲眼鏡をつくっている人がいて、それはものすごい値段らしいです。

アクセサリーははやり廃りがあって、いまはネックレスやブローチよりも、ピアスとかのほうが売れるかな」



——何か記憶に残る注文はありますか。

「ええ、煙草のキセルの吸い口をつくってくれと言うので、どうにかできたけど大変でしたね。もう引き受ける気はしませんけど」

——鼈甲がつやがなくなったらどうしましょう。

「それは磨き直しすればいいんです。ものによりますけど、眼鏡だと6000円くらい、ブローチとかイヤリングでは1000円くらいですよ」

——休みの日曜日は何をしておられますか。

「趣味はないんですよ。昔はお酒も飲んだんですが、コロナ禍になってワクチンしたら副反応がひどくて、飲んでもおいしくない。もうたっぷり飲んだしね。消防団をやっています。谷中はみんなが気をつけて火事はまず出ないんだけどね。でも地域のつながりは愉しいですよ。今週の末も谷中コミュニティ祭りがあるので」

——奥さんは磨きを手伝ったりしますか。

「いや、しません。大学の同級生ですが、働くのが好きで、ずっと別の仕事をしています」

——お店もきれいにされたんですね。

「それまで道路計画があったので、三階建ては建てられなかった。計画がなくなったので、6年前に建て替え今は、母と妻と子供たちと三世代住宅です」

——コロナがあってどうですか。

「コロナ前は、体験型のワークショップの問い合わせや取材とかありましたけどね。鼈甲の小さめの素材をお渡ししてつくってもらうような。修学旅行の受け入れもやっていました。コロナでいったんワークショップはやめてるんですけど」

——お父さまのお墓はどこに。

「谷中霊園に松平家のもっていた土地があって、それをお茶屋さんのご縁で譲っていただきました。寺ではないものですから、浄土真宗のお坊さんにきてもらって法事などをしています」

——お子さんは後を継ぎそうですか。

「さあねえ。うちは男の子3人、下は双子です。やるかどうかはわからないですけどね。

子供の頃は愉しかったですね。うちにお風呂があるのに週に一回くらいは同級生とお風呂屋に遊びに行っていました。すぐ並びに菊の湯があり、柏湯もあり、三崎坂に朝日湯、ここだけ今は残っていますね」

さっぱりと人柄のよい、顕さんは時間を惜しまずに丁寧に仕事を説明してくれた。

取材・文:森まゆみ




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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


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