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2022年10月26日更新
創業明治3年。老舗の花屋さん「花重」が伝えていきたいことー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.45
『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は創業明治3年、老舗のお花屋「花重」へ。(編集部)
創業から152年、4代にわたる花屋のストーリー
谷中墓地の入り口に花重という明治3年からの老舗の花屋がある。建物は国の登録文化財。すでに歴史は150年を超える。今の店主は4代目の中瀬いくよさん。店舗改装のため、借り越ししている根岸のお店に伺った。
——お父さまにはお店の歴史を伺ったことがありましたが、いくよさんにゆっくりお話聞くのは初めてですね。
「私は、上野にあったフローリスト養成スクールや、フラワーデザインの教室のほうを任されていて、谷中の店に立つようになったのはこの14年くらいです」
——以前、お父さまにお聞きしたときには、初代の関江重三郎さんは天保12年生まれ、西新井の出で、三崎坂にあった花長さんの養子となって明治3年にここに生花問屋花長を開かれた、と。
「そうです。はじめは花長といい、名字も国井だったのですが、役場の戸籍係の人が間違えて関江となって、同時に名前のほうも長兵衛改め重三郎として名乗った、と聞きました。
店ができたのは谷中墓地の開設より早いんです。江戸の終わりごろ、大八車に野菜と花を乗せて、谷中の今の店の前あたりにきて並べると、花のほうが売れる。天王寺の墓地があってお供えしたようなんです。それで現在の場所、旧天王寺門前で店を始めました」
――二代目のおじいさまはどんな方ですか。
「初代はそんなわけでまじめに働いたのでしょうが、実子がいなかったので葛飾の農家の次男を養子にしました。ところがこれがまるで遊び人。妾が5人いたというのですから。私が中学生の時に亡くなりましたが、知らないおじさんが出てきて、父はその人たちにも遺産を分けたようです。
そうは言っても二代目は趣味の多い人で、書もうまく、花もくわしく、絵も描いたようです。東和華道という生け花の流派も立て、茶道も教えていました。
この東和華道は遠州流と池坊を基としているんですが、とても姿のきれいな線と空間を生かした生け方なんです。いま96歳になる叔父の関江松風が後を継いでいて、私も習いに行っていました(その後、2022年7月に松風氏が他界)。
おばあちゃんは長生きして、私を可愛がってくれました。亡くした娘たちによく似ているというので、七五三などもおばあちゃんに手を引かれてお諏方さまに行きました」
——お父さんは3代目ですね。
「父は、祖父が反面教師で、まじめでした。大正8年生まれで、谷中小学校から京北中学。店の建て直しのため大学も行けず、戦争に行きました。戦後は近くの上野精養軒の結婚式や、文化会館のコンサート用のお花を納めたり、手広くやっていました。近所のおじさんからは、3代目はよくハーレーに乗って配達してたよと話を聞きました。
母のきよは昭和2年生まれ。湯河原から嫁にきました。8人兄弟の6番目にできた初めての女の子でお姫さまみたいに育ったので、それほど店の仕事はしませんでしたが、住み込みの店員や修業者のための食事の世話をしていました。そのころは番頭さんもいて、20人以上従業員がいましたからね」
――子どもの頃の思い出はありますか。
「建物の修復のとき、地下の室が出てきたんですが、子どもの頃に二つ違いの兄と懐中電灯をつけて怖いけど探検したことがあったんです。そこは墓前にお供えするあせみ(馬酔木)を置いておく場所でした。福島の業者から取り寄せていて、いまは福島にも1軒しかなくなってしまいましたが、小さい頃はよく父に連れられて福島まで行きました。
私は初音幼稚園から谷中小学校。遊ぶのはもちろん墓地ですね。ターザンごっこ、かくれんぼ、おままごと、みんな墓地でやりました。そのころのお友達は女の子はほとんどお嫁に行ってしまいましたが、男の子はお寺のご住職とか、石屋さん、寿司屋さんとか、少し谷中に残っています」
屋号と伝統花の技術を残してほしい。父はそう言い遺した
——どうして同じお花の道を。
「私は地元の中学、共立女子高を出て、植物や装飾に興味を持ったので恵泉女学園の園芸科で色彩やデザインを学びました。22の時にアメリカに「フローリストリー」という学問があると聞いて、ロスから始まってニューヨークまでひとまわり、1カ月ずつ短期のスクールで学びました。フラワーデザインから花の手入れや経営学など、割とすぐビジネスに役立つような花屋学でしたね。帰って24で結婚し、娘が2人、孫が3人います」
——お父さまはいつも蝶ネクタイを小粋にしておられました。
「長いネクタイではぶらぶらして、ハサミを手に生徒に教えたりするのにも邪魔になりますからね。父は後継者の養成にも情熱があったので、フローリスト養成スクールを立ち上げ、政府と交渉して国家資格検定のシステムを中心となってつくり、200人くらいの指導員を育て、その人たちが各地でまた教えています。
私も上野広小路のビルを2フロア借りて、フローラルデザインを教えていました。すごいブームだったんです。でもそのうちに大手の花屋さんも同じような学校法人をつくって、うちのほうはだんだん下火になりました。それで、スクールは何年かかけて終わりにしていったんです」
——それでも、お店の後を継ごうと思われたんですね。
「カリフォルニアの大学を出た兄は父への反発もあり、後を継ぐ気がなかったので、私が両親を守らなくちゃという気になりました。それは教育ですね。花屋としての知識と技術は持っていましたし、なにより好きでしたから。
父は最後まで頭ははっきりしていましたが、体が言うことを聞かなくなってしまって。もう20年以上前に81で亡くなりましたが、父にとっては財産より名を残すほうが大事だったので、頼まれたのは花重を残すことと、伝統花の技術を残すこと。いくべえ、お前が好きなようなやり方でいいから、『じかもり』も伝えてくれ、と言われました」
――「じかもり」というのは?
「卓上に、じかに生えているように花を盛ることから、じかもりと呼ばれている伝統の技術がありまして。父は大型の作品集も出しているんです(『じかもりーTHE ZIKAMORI 』1998年)。私も数冊本を出していて、じぶんなりのじかもりに触れています。
亡くなる少し前に、おとっつあん、どんな葬式がいい?と聞きまして、そうしたら、おとっつあんはだなー、鶴が好きだからと言うので、菊鶴というのを1000羽、生徒とスタッフでつくりました。祭壇に鶴が羽を広げたような、入ってくる鶴と出ていく鶴という物語をつくり、正面の花祭壇は、羽の先がピンと空中に伸び、大鶴が大きく羽を広げたフォルムを主人とともにつくりました。それがフューネラルデザインの雑誌の表紙にもなって、父も本望だったと思います」
——この数年もたいへんだったのではないですか。
「父がかなりの借金をこしらえたままの花店経営がしばらく続き、主人とともにやりくりしていきました。3年前に、社長であった主人が他界した折、私は相続を放棄し、借金のために財産を処分しました。従業員さんもみんなやる気と力のある人ばかりでしたが、涙をのんで縮小しました。今回、店の建物と営業を残してくださる方にめぐりあい、引き受けていただけることに感謝しています。
そしてコロナ禍のなかで主人を見送り、母を見送りました。母は最後の3年は施設にお願いしていたのですが、湯河原の出身で魚が好きなので、連れ出して回転寿司に連れて行ったら、くるくる回るお寿司が初めてだったようで、童女のように目を丸くして喜んでましたね。母を素直に可愛い!と思いました」
ウクライナの戦争が始まって売れるようになった花
——墓地やお寺さんとお花屋さんの関係というのは。
「谷中のお寺さんは戦争の被害に遭わなかったので古くからあせみ(あしび、あせび)の需要が大半ですが、根岸のお寺さんの墓参客はおしきび(しきみ)を使われたり、地域の違いを感じます」
——あ、詩の雑誌で「馬酔木」というのがありました。
「そう、その字です。またお墓にお供えするお花は一対3000円くらいで、仮店舗の間は、花重の前の無人スタンドに置いています」
——そんなことして、お金を払わないでもっていく人はいませんか。
「前に一度あったので、『せっかくお墓参りに入らしたのに、そんなことをしてはご先祖さまが悲しみますよ』と張り紙をして、それからはありません」
——お供えはどんな花で作るんでしょう?
「保ちがいちばんですから、菊が主流ですね。真ん中に『芯』といってまっすぐな長い花を置き、『胴』は目立つ、華やかなもの、『添え』または『顎』と専門用語では申しますが、それらを組み合わせます。
うちでは伝承9種といって、芯に菊を使い、あとはカーネーション、アナスタシア、リアトリス、ピンポンマム、粟、デンファレというラン、ソリダゴ、スターチス、これで9種かな。季節感を大事に、その方の希望も入れて好きな花を組み合わせます。若い方の場合はブーケ風にしたり、最近は洋墓も増えていますので、そうするともっと短く、軽やかに作ります。
これで一対3000円ですが、一対という言葉を知らない方も増えましたね。また仕入れの値段が上がっていますが、買う方の懐も厳しいというのがたいへんなところです」
——市場に仕入れに行くんですか。
「太田に市場がありますが、あそこまで行くと半日潰れちゃう。今、うちはそんなに量を多く扱ってないので、基本的にはネットで注文して届けてもらっています。ときどき大きな仕事が入ると行くこともあります。最近、大企業の新入社員歓迎会の卓上花を140個分の注文をいただきました。退職する社員に花束をというお話もあります。そうなると娘も手伝いますし、てんてこ舞いです。
またスクールもやりたいんですけどね。前に、近くの木楽庵さんのスペースを借りて、クリスマスリースとか、1日レッスンでは注連縄づくりとかもやりました。生徒さんの中には上野の教室から40年近く通っている方々もいらして、じかもりのレッスン再開を待ってくださっています。伝統花は大事にしていきたいですね」
——結婚式も、葬式も形が変わってきてますね。
「そうですね。昔ほど派手にしなくなりましたし。つい先日も、お母さまが亡くなって姉妹お二人でご葬儀されるという相談がありました。棺に花を敷き詰めたいというので、お二人で送られるのであればもっとシンプルに、棺の中と棺の上におひとつずつ、ラストブーケを飾られたらいかがですか、と提案しました。お母さまは赤い花がお好きだったそうですが、やっぱりご葬儀では白を基調に淡い色のお花でまとめましょう、とお話しして、とてもいいものができ、喜んでいただけました」
——最近はどんな花が売れますか。
「根岸はマンション住まいの方が多くて、仏壇も小さいですから軽くて小さなものが出ますね。それと自分のために一本だけ好きな花を買っていく方も多い。楚々とした草花も人気です。このところウクライナの戦争が始まってからひまわりがよく売れます。国旗に合わせてブルーのリボンを結んで差し上げたりしています」
江戸っ子らしく、率直ないくよさん、たくさんの知識を惜しみなく教えてくださり、隠し立てせずに話してくださった。改装されるお店が国の登録文化財の面影をきちんと残すものになるとよいな、と思う。
取材・文:森まゆみ
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
http://www.yanesen.net/
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