2022年10月19日更新

いいと思ったらなんでも一人で。自然食のお店「根津の谷」の房枝さんはさらさらと語るー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.44

『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は自然食とヴィーガンレストラン&カフェのお店「根津の谷」へ。(編集部)

冷え性を治したくて、やっぱり食べ物だと


地域雑誌「谷根千」を始めたころ、ここに置いてもらい、2号で店主の鳥居房枝さんに原稿(エッセイ「自然食雑感」)をお願いした。子どもが小さな頃は、みりんでもしょうゆでも野菜でも、よいものが食べさせたくて、配達のついでによくこの店で買い物もした。でも、終刊以来行っていない。ベジタリアンの店として広く知られ、店を拡張してレストランも始め、外国人でいっぱいと聞いた。

「お久しぶりです」とお会いした店主の房枝さんはちっとも変わっていない。前より少しほっそりされ、おしゃれな縞模様の木綿のモンペ姿。まったく年がわからない。

「そうお。私は昭和15年生まれの戦中派なのよ」

うっそー、じゃ82歳ということ。その物静かな哲学的な風貌や話し方も変わりがない。

「根津の谷をはじめたのは昭和53年、1978年だから、『谷根千』の雑誌より6年くらい早いのかな。イヤー、『谷根千』も本当にがんばったね。うちは大正からここできんつばを売ったり、質屋と電話金融をしていたの。その前は鳥越にいたらしいけど、こちらに移って。だから私は根津生まれの根津育ち。

5歳ぐらいだったけど空襲も覚えているわよ。防空壕に入ったのとか。根津小学校の地下にも、ものすごく長い防空壕があったのよ。B29 が飛んでくると、真っ暗な空がものすごく明るくなってね。両国のほうに焼夷弾が落ちて、向こうの空が真っ赤になってた。東大の研究機関があるからこの辺には爆弾や焼夷弾も落とさなかったと思うのね。ほんとかどうか知らないけど。

父と母と弟は戦争中もずっと根津にいたけど、兄と私は母の実家のある福島の会津西方に疎開しました。会津若松からさらに山奥に入ったところでね。ずいぶん汽車が混んでいてぎゅうぎゅう詰めだったのを覚えてます。トイレなんか、子どもは手渡しで窓から出入りするのよね。あんなの生まれてはじめてだった。

そこに2年くらいいたかな。雪が多くて2階から出入りするような豪雪地帯だから、寒くてね。行った先にも子どもが一杯いて、私もまだ小さかったのに背負わされて、子守もしたのよ。

根津は関東大震災でも焼けなかったものね。前の家は100年はたってたわよ。隙間風は入り放題、猫も入り放題。家は傾いていたけど潰れなかったわね。父は大学1年のときに亡くなり、兄も亡くなったけど、その後ここを6階建てに建て直したの」



きれいな声でさらさらと語るがなんとなく威厳がある。最初に会ったときから自分をしっかり持った女性だと、畏敬の念をだいてきた。

「根津は都電が店の前を通ってたでしょ。どぶもあって、蛭もいたわね。昔は八百屋さんも3つ4つあったんだけどね。魚屋さんも貝屋さんもね。銀行が赤札堂になったのよ。角には、交番、郵便局があって、着物の多古やさんは古い。その向かいの角にパチンコ屋もあったわね。

子どもの頃、いまは東大の浅野キャンパスになっている浅野屋敷でいろんな草花や木の葉をとってきておままごとをして遊んだりね。

私はそのまま六中(文京区立第六中学校)に行きたかったんだけど、5つ年上の兄貴が探してきて中学からは大塚の跡見学園に通いました。都電で一本だものね。大学はほんとは早稲田で英語を勉強したかったんだけど、慶応を出て。ちょうど60年安保のときが20歳で、あの頃、国会前にもいたわよ。そういう影響は受けた世代よ。

もちろん卒業したって、女子に就職口なんてなかった。川崎で小学校の先生に内定していたけど、先生になる自信はなくて。私は寒がりというか、体が冷え性なもので、どうにかそれを治したくて。病院にも行ったりしたんだけど、薬で治すのは嫌じゃない? 体の中からと考えて、やっぱり食べものだと。それで、自然食品センターという卸問屋に勤めた。いずれは独立と思っていたけれど、5年くらい勤めたかしら」

――もう1960年代に自然食のお店があったんですね

「渋谷に天味という店舗があって、来日の際にはビートルズも利用したとか。それから日吉に卸の部門があってね。おかげでいろんな勉強をして、あちこちで自然食のお店作りの手伝いもして、体を食べ物で治している人たちとも出会って。玄米食と味噌汁で、それから大きな病気はしないわね」

コロナの前は一時、外国のお客さまばかり


——親の代からのお仕事は、すんなり業種を変えられたんですか。

「自分が食べたいから、お店を始めたのでね。最初は戸越銀座でやろうとしたんだけど、兄貴がわざわざそんな遠くを借りるよりここでやればと言ってくれた。その気持ちに兄弟がみんなついてきてくれたということかな。そのとき私は38歳だった」

——最近、和食も見直されているし、一汁一菜でいい、という本も売れていますね。

「その通りだと思う。身土不二というじゃない。日本は縄文時代からお米を作っているんだから、日本人の体には米があっているのよ。糖質制限ダイエットとかも流行っているけど、玄米をよく嚙んで食べれば、唾液がたくさん出て免疫力が高まるし、どんどん体が排出するから太るはずはないよ。この大切なところを米を噛む、つまりこめかみ、と言うでしょ。

日本人は腸が長くて胃も縦長だから、消化吸収のゆっくりな穀類が適していると聞いているし、着物が合うのもそのためよね。これは日本の文化だから。

自分に合わないものを取り入れようとするとアレルギーを起こす。それは自然な反応なんです。私はずっと玄米と3年寝かせた味噌でつくる味噌汁。旬の野菜をたっぷり入れて。野菜は加熱して、甘いものは控える。それで体質が変わり、北向きの店に一日立っていても大丈夫になった。

玄米の中にはあらゆる栄養が入っているから。小さいお子さんやお年寄りはよく噛めないから、精米機でちょっと精米して表面を取ってあげるといいのよね」

——うちも精米機があって、玄米を3分づきとか7分づきにするんだけど、あの余ったぬかをどう利用していいかわからなくて、ふきんに包んで掃除したり、それで顔を洗ったりするんだけど。

「それはもったいない。何にでも使えるのに。あそこに栄養素があるんだから、お風呂に入れるよりも、スープにして飲んだりしたほうがいいわよ。湿疹とかアトピーを治すのにもいいのよ。

動物性のものもたまには食べるけど、とりわけいらない。お正月のお雑煮に入れるくらい。外国の人も日本の和食がすごく体にいいし、おいしいって、コロナの前は一時、外国のお客さまばかりでした」

——お味噌汁を作るのが面倒で。

「お味噌をお湯に溶くだけでいいじゃない。あるいは一日分つくって、そこにお米入れちゃえばおじやになるし」

——現在食糧自給率は36パーセント。お米を食べて、農家に感謝と応援しなくちゃね。

「そうなのよ。アメリカからの輸入小麦粉の中には遺伝子組み換えのものもあるし、日本でちゃんとした小麦粉が取れるのに輸入なんて冗談じゃない。豆腐を作る大豆も、なんでも気をつけたほうがいい。

うちは何軒か直接取引の農家さんの野菜がきますし、またいくつかの自然食品の卸からもきます。昔は大地を守る会のステーションにもなってたんだけど」

続けられる秘訣は「自分が食べたいから」


——よくこれだけ長く続きましたね。大変だったでしょう。

「でもほら、自分が食べたいから(笑)。兄も兄嫁も弟も妹も、みんなが手伝ってくれましたから、どうにか体がもつんでしょう。ものすごくたくさんの品を少しずつ置いているから、仕入れも売るのも配達もたいへん。それと運動には関わらない。なんでも一人でいいと思ったらやるの。

これから、ますます食べものが大事になるでしょう。食べものが体をつくるわけだから。あと食べ過ぎの人も多いみたい。玄米をよく噛んで食べると、体が応えてくれる。それとお味噌汁で十分なの」


左が鳥居房枝さん。右は妹の林文子さん

そこに妹の文子さんが現れる。タイプの違う、華やかな元気な方だ。

「姉とは7年違うから、私は70年代の学生。こういう仕事はあの学生運動の中で生き方を問い直した人がはじめた場合が多いのでは。欧米でも、学生運動から既成社会からドロップアウトしてヒッピーになったり、農業をはじめたりした人はたくさんいました。本当にこの店は兄弟で作り上げてきたんです。姉とはまったく性質も違う。そう見えないけど姉のほうが精神的に強いです。

母も98歳で亡くなりましたが、ずっとお店を手伝ってくれてました。開店当初からゴミの問題も意識にあって、新聞の折込チラシで品物を入れる紙袋を作っていてね。にんじんでもじゃがいもでも1個売りしているから、そういうのを入れるのにも意外と便利でね。そのまま冷蔵庫に入れると野菜が保つんです。レジ袋もお客さまから集めて再利用していました。店にイスがあって いつもそこに座っていた。ヨシノといって明治38年生まれのここで関東大震災も空襲も見てきた人で、看板おばあちゃんでした。

姉のつれは絵描きだったけど、配達は自転車でどこまでも行ってくれました。年末の自然食のおせちもたくさん注文いただいて。いまは私の娘が店を引き継いでいます。私は本当は大森のほうに家があってつれもいるんですが、人手不足でこちらが忙しくて、そちらはほったらかしで」



——こちらを広げて自然食のレストランもなさっているんですね。

「今は金曜、土曜にやっています。天井を高くしたいので小屋裏を見せて、ひのきの間伐材で内装をしました。壁は漆喰だしね。テーブルはみんなかたちが違うけど無垢材です。蔵だったときの棚がもったいないというので、一枚板を利用してつくりました。

レストランがお休みの日も、日替わりで1080円のお弁当があります。これが人気があって喜ばれています。



とっても能力の高い若い男性が今日も作っていますが、それを見ていてもわあ、と思うくらい教わることが多いんです。たとえば切り干し大根でも、私たちはそのまま煮つけたり、あるいは若い人は油で炒めてから煮たりするでしょ。でも彼はそれぞれをまずから煎りして、それから味つけをするんです。だから、素材のしゃきしゃき感が残っていて、とてもおいしいの。

玄米を炊くのも圧力釜で炊いてるだけじゃなくて、重石を乗っけてみたり、いろいろ試しながら工夫していて、もうびっくりすることばかり。妥協しないんです。マヨネーズも手作りで、お客さまが帰りに買いたいとほしがるのですが、それは特製なので、と」

彼の作る自然食のランチは雑誌「dantyu」などでも紹介されるまでになった。試しにそのお弁当を買った。玄米がふっくらと炊けていておいしい。さらに漬物でも包丁がキレキレで、断面がつるっとしている。たしかにひじきと豆の煮物はあっさりとした味だけどしっかり味がついている。小松菜となめこのおひたし。驚異的においしいのはゴボウやにんじんの入ったかき揚げ。大満足だった。



子どもが小さいときには私も気をつけたものだ。彼らが巣立って、自分はまあいいか、と食べ物に甘くなっていたが、今日は活を入れられたかんじ。これからの時間を楽しく過ごすためには自然食をなるべく取りたい。

長い時間の中で自然農法の農業を5年間もやり、私は多くの生産者と出会い、米、味噌、醤油、みりん、油、だしつゆ、牛乳、バターなど基本的なものは無添加無農薬のものを使っている。野菜は旅行の帰りに必ず直売場によって、その土地の新鮮なものを買ってくる、時には無農薬の野菜を送ってくれる友達がいる。それでも近くに「根津の谷」さんがあることはどれだけ心強いことだろう。

取材・文:森まゆみ

当連載のアーカイブ

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやき
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.3ー甘味処「芋甚」は根津にはなくてはならない、お守りみたいな店である
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す根津宮永町の昔話
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.6ー鉄道員から役者、そして寿司屋へ。すし乃池の大将の人生には花と町がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.7ー5代続く骨董店「大久保美術」の心やさしい、ゆとりのある家族経営
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.8ー三崎坂のとば口にある朝日湯は谷根千に残る貴重な銭湯ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.9ー谷中銀座の貝屋さん「丸初福島商店」は素通りできないご近所の店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.10ー創業元治元年。江戸千代紙の「いせ辰」を訪ねると暗い気分も明るくなる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.11ー谷中のちいさな宿「澤の屋」に年間5000人以上の外国人が泊まる理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.12ーいい酒と人柄のよい店主。根津「サワノ酒店」はとびきり好きなお店だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.13ーあられ・せんべい「嵯峨の家」のいつもニコニコお兄さんー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.14ー谷中・桜木に一軒残る藤屋の豆腐は正直な手作りの味ー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.15ー谷中銀座の金吉園には、お茶のすべてを知る朗らかな茶師がいる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.16ー大澤鼈甲のお店には、昔ながらの工房とモダンなショールームが同居している
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.17ー創業290年。畳屋クマイ商店の仕事には職人の意地がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.18ー日本画の大家たちも訪れた画材店「金開堂」。岩絵具の奥ゆかしさに惹かれてー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.19ー大島屋はブームに関係なく淡々とお店を続ける町の蕎麦屋さんだ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.20ー牧野兄弟商会オーナー・文蘭さんの「泣いてる場合じゃない」半生
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.21ー生きていくうえで必要そうな雑貨を広く浅く揃える。「あんぱちや」は根津の太陽だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.22ー焼き鳥屋「鳥清」の味は三代の店主とお客さんに受け継がれている
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.23ー「やりたくない仕事はやれない人」になってしまった富永喜三さんが味噌商を継いだ理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.24ーパリの味、東京の味。ストレルの洋菓子は谷根千の味でもある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.25ー戸田文具店の正子さんは、旦那さんと猫たちと本当によく働いた
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.26ー昔ながらの八百屋さん、金杉青果店には買い物が楽しくなる遊び心がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.27ー飴作りは親父にも教えてもらわなかった。後藤の飴・三代目の心意気
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.28ー「カフェさおとめ」のある動坂下には、今もおっとりした風情がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.29ーいつもネクタイに白衣のご主人。よみせ通りの宝家は地元に愛される大阪寿司のお店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.30ー鰻と一緒においしい地酒が楽しめる。稲毛屋に漂う三代目の心意気
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.31ー動坂食堂。隣にあったら毎日でも通いたい
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.32ー不忍通りにある柴田商店は四代続く手書き提灯のお店
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.33ーひとつのものを、責任をもって、じっくり。甲州堂印舗のはんこは名前が"映え"る
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.34ー律儀で親切、泰然自若。テート薬局のご主人はいざというとき頼りになる町の重鎮だ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.35ー根津の釜飯屋さん「松好」の3代目は爽やかで商売熱心なイケメンだ
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.36ー浅尾拂雲堂はいまも昔も、絵描きたちに親しまれる額縁づくりのお店(前編)
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.38ー東京で一番古いジャズバー「シャルマン」。ご主人は元常連客だった歯医者さん
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.39ー変えないことが逆に新しい。菊見せんべいに「お客さんひっきりなし」の理由
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.40ー日本最古の在野美術団体「太平洋美術会」には本当に絵が好きな人たちが集まる
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.41ー藝大の先生方もお坊さまもスッキリ。「シンプルヘア」は明治から続く理容店

Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/

連載もの: 2022年10月19日更新

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