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2022年09月30日更新
団子坂の穴蔵みたいなレストラン。ターボラは気どらない"街イタリアン"ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.43
『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は団子坂のイタリア料理店「ターポラ」へ。(編集部)
背広の生活が合わなくてイタリアンに転職
団子坂の中腹に、坂に向いて窓のついた穴蔵みたいなレストランがある。黄色いドアを開けると中は広い。大きなテーブルとイケアの布張りのイスもむかしのまま。この店の創業は1984年、ほぼ地域雑誌『谷根千』とおなじ。事務所もこの辺だったので、ランチを食べに来たり、時々店を貸し切りにしてパーティをした。
「覚えてますよ、NTTのタウン誌大賞の時のクリスマスもうちでやってくれたでしょ。あのときはお店が人でぎっしりでしたね」
とご主人の大竹誠さん。いつも白いシェフコートを着てキッチンで料理に余念がないので、これまであまりお話ししたことはない。
――昔は「安全地帯」の玉置浩二にそっくりで、茶髪でしたよね。
「そうでしたっけ。僕は昭和26年生まれで、故郷は群馬、育ったのは東京の梅ヶ丘や狛江で、大学は学習院の経済学部です。喫茶店でバイトしたり、友達と遊んでばかりいた。大学出ていったんは茅場町の小さな雑誌社で2年くらいサラリーマンをしたんですよ。
そうしたら、大学の同級生で親友が、会社を辞めてイタリアンの仕事をしたいと言い出した。茅場町の会社の近くに、ジャムやピーナッツクリームで有名なソントンが経営するピッツェリアがあって、僕の友達が店長をしていたんですけど、そこを彼に紹介したんです。
会社帰りに通ううち、僕も背広の生活があわないなあなんて思っていたので、そのピッツェリアで一緒に働くようになりました」
――早くに切り替えられたのはよかったですね。
「ところが、まもなくソントンが経営から手を引くことになって、オーナーが代わり、パブレストラン・イフになった。その代替わりによって店にもとからいたチーフの使い込みが発覚しまして。それで、オーナーからあなたたち若いふたりに後を任せると言われてやってみたら、60万だった食材の仕入れが20万になりました。
オーナーの女性は、生意気な若造が言うこと聞かないのであきれてましたけど。いい人でちゃんと給料も払ってくれた。結局、そこで8年やりました」
――当時、イタリアにも行かれたんですか。
「1980年に結婚して、とりあえず現場に行ってみなくてはわからないと思って、新婚旅行でイタリアに。パリから入って、スペインからずっと海沿いをローマまで、ユーレイルパスで回りました。往復のエールフランスのチケットと、最後に泊まるパリの宿だけ予約して、14日間。
親友の彼がその前に3カ月イタリアに行ったとき、イタリア人と結婚してローマのトレビの泉の近くで鞄屋さんをしていた日本人女性のキクコさんという方のところでお世話になって、後から行った僕らも本当によくしてもらいました。毎晩のようにおいしい店につれてってもらったり。サバティーニとかに行くと、キクコさんが『ちょっとあそこにいるの、バート・ランカスターよ』なんて。
キクコさんはイタリアに来る日本人のお世話をいろいろされたんですね。中近東の公共工事の仕事をする日本人とか、お世話になった人たちが帰りに寄って、『かあちゃんにお土産』ってキクコさんの店で買っていくんですが、いざお金を払うとき、服をぬぎだすので驚いた。盗られちゃいけないというので、みんなお金を胴巻きに入れていたんですね」
――私も1977年に最初にローマに行ったとき、母の着物の伊達締めの中にお金を入れて行きました。苦しかったけどね。それで本場のイタリア料理はどうでしたか。
「フランスからジェノバに入った夜、たまたま入った店で食べたスパゲティがうどんみたいに柔らかくて、泣きたくなりましたよ。ここまで来てこれかよって。でもローマに着いてからのお店はさすがにおいしかった。モッツァレラチーズなんて、たまらなくおいしかったですね。
イタリアではお店で食べたものもみんな手帖に書き留めて、スペインではバルで煮るのか焼くのかなどとお店の人に聞いてね。マッシュルームのアヒージョとかのタパスを教えてもらいました。
それにしても、イタリアの男性は本当に女性が好きですね。サバティーニに行ったとき、お店のワインを入れるカラフェがすてきなので、このカラフェが欲しいと言ったら、『いいよ、お前にやる。代わりに奥さんにキスさせろ』とか言ってね。そのとき、僕の目を片手でひゅっと押さえてさ。それで、はい、あげるよって。ほんとにやることがしゃれてますね。
――奥さんに叱られなかった? でもイフがうまくいっていたのに、どうして独立したんですか。
「僕も彼も32、33歳になって、売り上げがそうそう上がるわけではないし、ふたりの基本給に毎日4~5時間の残業代がかかると、僕たちふたりの人件費だけでもたいへんだろうと思ったんです。それで彼は代々木八幡の自宅を建て替えて地下に自分の店をつくることにして、僕は千駄木で独立しようということになった。
ここは最初、瀬谷さんという耳鼻咽喉科のお医者さんのビルで、もともとこの場所はライムライトという喫茶店でしたが、そこが空いていたので。たまたまビルの企画会社の社長とイフの女性オーナーが知り合いで、紹介してもらいました」
イタリア料理を主体になんでも。常連さんたちの好きなものをつくるうちメニューが増えちゃった
――ターボラという店名はどこから。
「ターボラはテーブルのこと。ターボラ・カルダというのは、イタリアで大衆食堂のことです。リストランテ、オステリア、タベルナ、ピッツェリア、バールなど、さまざまなカテゴリーやスタイルの店があるなかで、行ってみれば近所の人が来てくれる気の置けない店。街イタリアンみたいなものかな。
最初は前菜とパスタだけでやってました。でも、常連さんたちの好きなものをつくったりするうち、メニューが増えちゃったんです。長くやっているので、小さい頃に来てて20年ぶりに来ました、なんてお客さんもいますね。
開店当時に手伝ってくれたのが弟で、LPのレコードジャケットでつくってくれたメニューを、今も使っています」
――たらこのクリームパスタなんて、絶対うちでは作れない。生クリームが入っているんですか。
「生クリームだと味が濃くなりすぎてしまうので、乳脂肪分が少なめのものを使っています。
常連さんはお顔を見れば、何を頼むかわかります。それでたまに別の人が取ったのを食べて『これ、うまいね。こんなのあったの?』なんておっしゃる。最近はなぜかお昼はトンノ(ツナ)のスパゲティの注文が多いんですよ。
『谷根千』の山崎さんもよく見えますが、彼女が好きなのはトリッパ。牛の蜂の巣の煮込みですね。オーソブッコ(仔牛の骨付きすね肉の煮込み)もメニューにありますよ。鶏のジェノバソースとか」
――あの頃のイタリア料理はざっくり一つ、いまはトスカナ料理、ベネチア料理、ミラノ料理っていろいろ分かれていますね。
「そうですね。古くからの店では永田町にロマーノというローマ料理の店があって、食べに行きましたね。それからアルポルトとか。芸能人が行くので有名だったキャンティや青山のアントニオなどが草創期の店ですね。
それと高田馬場のリストランテ文流。ここは料理書も扱っていて、料理雑誌を買ってきては、たとえば、オーソブッコだったら、それぞれの雑誌に共通して入っているもの、アレンジで入っているものなどを見比べながら、じゃあ、自分はどういうふうにつくろうかな、みたいな感じでやっていました。あとは実際に食べに行ったりして、自分の好きな味をつくっていく。
今は料理のレシピもたくさんネットにも載ってますし、若いシェフはイタリアに飛び出せる。僕らは料理書を買って試すしかなかった。それもなぜか料理の本は高いんですよね。うちはイタリア料理を主体になんでもやってます。
『Hanako』とかに載ったバブルの頃は、アルバイトも含めて、厨房3人、フロア3人でやってましたが、今は昼は息子とふたり、夜はかみさんもいて3人です」
――ランチもこの値段でよくやってらっしゃいますね。
「消費税が3パーセントから5パーセントに上がって以来、値段はあげていません。ロシアとウクライナが戦争になって、小麦の宝庫なのでパスタの値段にも響きます。サーモンなどロシア産のものもありますし、その他いろいろ上がってしまって。困った困った、どうしましょう」
――体を大事にして下さいね。ちゃんと検診をやってます?
「70歳になるまでは年に数回、献血してました。そうすると全部数値がわかるから。やっぱりちょっとガンマの数値が高いですね。料理をつくりながら飲むのはほとんどビール。たまにワイン。これに何が合うかなと胃が考えますから」
――40年間振り返って、お店のイベントとかはありましたか。
「あ、そうそう、2002年の日韓ワールドカップのときはここに大きなスクリーンを立てて、ハーフタイムにがーっと料理をつくって、また飲みながら見てました。アルバイトの子たちと店が終わったあと、飲みに行くことも多かったです。春と秋には競馬場にみんなで見に行って、ござを敷いてワイン飲んだりしてね。冬はスキー、クリスマスはラストオーダーのあと僕がローストチキンを焼いて、朝まで飲んでいました」
――楽しそうね。谷根千のお店ではオーナーさんとアルバイトたちが家族みたいなお店が結構ありますね。コロナのときはどうでしたか。
「緊急事態で休んで、また開けたときはまるで体がついていかない。しかも夜は8時までだったから、皆さん、仕事が終わって7時頃お見えになって一時に注文なさるから、もう手が回らない。なかなか調子が戻りませんでした」
――もうイタリアへは行かれないんですか?
「行きたいですよね。例の親友が50代で亡くなったんです。そのとき骨を少しいただいて、本当はいけないんでしょうが、彼の好きだったローマのボルゲーゼ公園に少し埋めて、あとは地中海に撒きました。
彼とは年がら年中一緒だったから。両方とも家庭持ちなのに、我々はまだ学生時代よろしく、あちこち飲み歩いていました。
それで、彼の奥さんとうちの夫婦と友人たちで、彼の3回忌、7回忌、13回忌とイタリアに供養を兼ねた旅行で行って、17回忌で行こうとしたら、コロナになっちゃった」
ややかすれた声が渋い。使われていた時代、食材の仕入れを60万円の仕入れを20万まで落とした正直な青年、その面影が今でも残る。
彼は自分がオーナーになると、使われる側の気持ちを大事に、アルバイトを育ててきた。おかげでここでアルバイトをしていた谷根千キッズのひとりはイタリア料理が得意になって妻に喜ばれ、今も大竹シェフを慕う。いつまでも団子坂にあってほしい店だ。
取材・文:森まゆみ
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
http://www.yanesen.net/
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