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2022年03月30日更新
東京で一番古いジャズバー「シャルマン」。ご主人は元常連客だった歯医者さんー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.38
『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は東京で最も古いジャズバーと言われる「シャルマン」へ。(編集部)
レコードは8000枚。客が主人を"先生"と呼ぶ理由
谷中銀座の突き当たりに「夕焼けだんだん」がある。不肖私が名付けた。石段の上からは夕陽がまぶしい。石段の右手前に黒っぽい小さな建物があり、二階がシャルマンというジャズバー。
シャルマンはフランス語で魅力、英語で言うチャーミング。この店はおそらく、東京でも最も古いジャズバーらしい。
私は大学生の頃からこの店の存在に気づいていたが、あまりに敷居が高すぎて入ったことがなかった。ジャズに疎い。ジャズに詳しい、マニアの人たちのいる店は怖い。再開発で閉店か、移転かを迫られていると聞いて、いまさらではあるがお話を聞きに行った。
狭い階段を上がっていく。ドアは開いていた。現在の店主は石岡守之助さん。毛糸の帽子をかぶり、眼鏡をかけた店主が一生懸命黒いLPレコードを磨いている。いや、溝のほこりを取っているといったほうがいいか。
5時半頃すでにカウンターは満員で、レバノン出身というアルバイトの男性がかいがいしい。この日はそっと聴いてそっと飲んで帰った。帰りがけに、話を伺いに来てもいいかを聞いた。別の日。
——創業者の毛利好男さんから引き継いで12年目。お客がご主人を先生と呼ぶ。どうしてですか。
「私は根岸に住んでいるけど、仕事は千葉で歯科医なの。ほぼ四半世紀、この店に通ってきた。2010年に毛利さんが足を骨折して店に通えなくなり、もうやめるというので、僕があとをやらせてほしいと。はじめは毛利さんの息子さんが継ぐはずでしたが、土壇場でやっぱり継がないということになって、権利を居抜きで売ってもらいました。
だって、毎日みたいに飲みに来てたから、ここがなくなったら行くところがなくなっちゃう。本業もあるから、水曜、金曜、土曜の週3日だけ、夜に店を開けています」
——それでやっていけるんですか。
「まあボランティアみたいなもので、家賃と酒の仕入れ代が入ればいい。そのぐらいはどうにか。かけるレコードは8000枚あるし。アンプやプレイヤーもそのまま譲り受けたし。プレイヤーはトヨタ・サンバレー。アンプはダイナコ、これは古い。毛利さんの時代のだ。あ、LP1000枚はジャズでなくて、私の手持ちのロックとかね。何かかけましょうか」
——はい、お願いします。
「まずはロックかけるんですよ。ステレオの調子を見るんで。アンプが温まっているか。プレーヤーがちゃんと回るか。カートリッジはちゃんと音を拾うか。まず見ないといけないので。試しにはジャズの名盤はかけられないからね」
ジャズは自由だ。毛利さんもカッコいい自由人だった
――先生は、学生の頃からジャズがお好きなんですか?
「そうですね、だいたい高校生ぐらいから」
――好きになったきっかけを教えて。
「ロックに飽きたから(笑)。私は兄がふたりいて、音楽の決定権は兄貴にあった。影響されてビートルズも聴いたりしてたんだけど、中学生ぐらいのときにその歌詞を訳してみたら、なーんだと思って。
兄貴の趣味で、ビートルズと同時に、ゾンビーズとかバッキンガムズとか、サーチャーズとか、ちょっと亜流のロックというか、ポップソングというか。そういうのをずっと聴いていたんですよ。
でも、ロックのほうが定型化されて繰り返しが多いでしょ。それに比べるとジャズってのは、アドリブのパートはまったく独自じゃないですか。インスピレーションでやる。人によってこうも違うかと思うし、赴くままにやって自由だ」
——初代の毛利さんはいつこの店を始めたのですか。
「たしか1955年、いや、1954年中には始めたと聞いているな」
——それじゃ私の生まれた年です。戦争が終わって9年目、ここが崖だったところに石段ができた時代ですね。創業時に30だったとしても、毛利さんはご健在なら、いま97ということになりますね。
「いや、20代で始めたんじゃないかな。最初は1階でジャズ喫茶をやってた。80年代からは2階で、お酒を出すバーになったのかな。そうそう、向こうの物置きも見ていいよ」
——この造りは畳の部屋ですね、もとは。
「そう。こっちも和室だったところをはがしてコンクリートを流し込んで、床をつくった。毛利さんの設計。このビルは、ある建築家の方が上物を持っているんだけど、いま立ち退きを迫られています。この一帯、マンションになっちゃうらしい。
でも、毛利さんのことはよくわからないんだよ。ジャズ聴くときにそんな無粋な話、しないじゃない。でも好い男という名前の通り、かっこいい人だった。若いときの宍戸錠に似ていた」
——じゃあ、ちょっとラテン系ですね。
「自由人というのかな。酒の趣味も、音楽の趣味も合ったし。そのころって、進駐軍とか、そのあとの駐留軍経由で兵隊が持ってきたLPを高く買って、それをまた、うんと高く売るバイヤーがいたんだって。白いキャデラックの後部座席にレコードを一杯積んできて競りをしたり、くじ引きをさせたり。はい、外れ、あなたあたり、とか。それほど、みんなお金出しても、洋物のレコードが欲しい時代だった。
毛利さんもね、店は女の子に任せて、自分は新宿や銀座に飲みに行っちゃう。新宿にも同じようにレコードをかけているジャズバーが何軒もあって、そこに今新しいレコードは何か、探しに行ってた。そんな話は聞いたことがあるね。
僕は一度、毛利さんの話を聞いて本にしたいと言ったんだ。毛利さんが知っている日本のジャズの文化史をまとめたいって。そしたらほかの常連さんが、いや、それは俺がやるからと言って、そっちのほうが長い客だからぼくは遠慮した。結局その人はやらずに、毛利さんは亡くなってしまって。かえすがえすも残念です」
ウイスキーが波立つほどの大音量で
——戦争直後はSPでしたよね。うちの父なんかフルトベングラーとかベームの交響曲をSPで持ってました。うちにも蓄音機があって子供の頃に聞いてました。
「さすがにそのあとじゃないかな。LPになってから。でもLPというのはSPの音をどうやったら再現できるかを模索した。CDはLPの音の模索だった。つまり、SPが一番音質はいいんだよ。すぐそこで演奏しているような臨場感がある。技術は発展しても、音はどんどん劣化していくような気がするね。次は何聴きたい?」
――私、ジャズは素人で。一番好きなのはリッチー・バイラーク。あれは静かだから、仕事の最中でも聞いています。
「えらく渋いね。あるにはあるけど、そうリクエストがないから、探すのに骨が折れるな」
——じゃあ、何ならすぐ出てきます?
「デューク・エリントン。これはビッグバンドの極めつけさ。あとはセレニアス・モンク、これもいいね」
石岡さんは後ろの棚からさっと引っ張り出す。アーティスト別にまとめてあり、索引がついている。
——そう思って、今日はジャズのわかる人を助っ人に連れてきました。この仕事旅行の編集長の河尻さんです。
河尻「僕、早稲田のダンモ出身でして……」
「お、ダンモか。早稲田と慶應は学園祭見に行ったよ。慶応はさ、エレピはフェンダー・ローズの本物だし、ギターはギブソンのレスポールだし、セルマーだし、機材はいいやつ使ってるんだが、演奏の腕は早稲田のほうが上のような気がするな」
私、小声で「ねえ、ダンモってなに?」。聞こえてしまった。
「早稲田のモダンジャズ研究会。僕は中央だけどな」
——なんで中央大学出て歯科医なんですか?
「そりゃあ人に歴史ありだ。生まれは高崎だ。それ以上聞かないでくれ(笑)」
河尻「『ソロモンク』、あります?」
「あるよ」と石岡さんはひょいと、棚からその黄色いLPを出し、プレイヤーに載せた。
私、小声で「ソロモンクってなに?」。
「ジャズピアノの天才、セレニアス・モンクのソロ」
ものすごい音が店内にあふれた。しかし、意外にうるさいとは感じない。
「JBLのL45というスピーカーシステム。ライブ感のある音がするでしょ。よく、ここで飲んでいると、ウイスキーが波立ってたよ。音の振動で。ある程度音を出さないとアンプのよさも生かせないんですよ」
——でも野中の一軒家じゃないんだしねえ。この音量では、近所から苦情とか来なかったんでしょうか。
「昔はすごかったですよ。ぼくがいるときも隣のおばあさんがガスンガスンと棒かなんかで壁を叩いてきて。毛利さんは『うるせえばばあだ』なんて、平然とさらにボリューム上げるんですよ。そのうち警察が来る。警官はドスンドスンと階段を上がってくるからわかるわけ。そうすると、毛利さんはすっと音量下げてたね」
う〜ん、大音響でジャズを聴きたい気持ちもわかるし、安眠を妨げられて腹を立てるおばあさんの気持ちもよくわかる。でも、そのように住民同士が遠慮せず正面切ってぶつかり合える時代は健全だった。
古今亭志ん生も村上春樹も通ったお店
店主は自分のグラスにたまにウィスキーをつぐ。お強いですねえ。
「スコッチはストレートが一番だ。味に芯のある酒が好きだね。オールドパ―とか、ジョニー・ウォーカーとかハーパーとか。スーパー・ニッカもいいよ」
——ニッカのほうがサントリーよりおいしいという人も多いですね。
「そういう馬鹿なことをいう奴がいる。サントリーも少し甘いが、おいしいよ。あの甘みを蒸留で出すのが難しいんだから」
——じゃあ、私はそこにあるニッカをオンザロックで。どんなお客さんが来てました?
「有名人? 古今亭志ん生さんはセロニアス・モンクが好きだったみたいだよ。毛利さんとは仲がよかった。息子の志ん朝さんは下向いてじっと聴いてたって。話なんかしなかったらしい」
——お二人ともこの近くにお住まいでしたから。でも、志ん生がジャズを聴く姿はちょっと想像できないな……。ほかには?
「作家の村上春樹さんも来たって。毛利さんに、自分もこんなふうな店をやりたいと言って、通っていたらしいです。毛利さんはやめたほうがいいよ、と言ったらしいけど、どこか別のところで店をやったんでしょ」
ーーあ、国分寺かな。「ピーター・キャット」。あとで千駄ヶ谷に移ったらしい。
河尻「1961年に来日した、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが来ていますよね? それが一番大物かも」
「ウドーが、コンサートの合間にほかに連れて行くところがないからと。浅草に行って、ここに来たのかな。それぞれがジャケットにサインしているよ」
そう言ってサインを見せてくれる。
「今まで取材は断ってきたんだけど、今回の移転でこの場所がなくなっちゃうから、いいかな、と。いま、ほかに移れるところを探しているけど、この空間の雰囲気は記録に残しておきたいと思ってさ」
——少なくとも今日、聞いたお話だけは活字に残しましょう。
「続けてくれっていう常連さんの気持ちがわかるからね。僕もそうだったけど、他に行き場がないんですよ。もうこのシステムが身体に馴染んでいるわけじゃない? こういう音を聴きながらウイスキーを飲むのが、僕と彼らの人生の一部なんですよ」
――この雰囲気を新しいところで出すのは難しいですね。
「無理です。建物も違うから。この音はもう出ないね」
そういって、また石岡さんは黒い盤をなんていうのか、黒板消しの小さいようなモノで、愛おしそうにこすりはじめた。といってもなかなか力が入っている。
「レコードって結構やわらかいんです。割り箸を落としたら穴があくし、爪でレコードの表面をこすったら一発でダメになる。人任せにはできないんだ」
先生のジャズとお酒、そして毛利好男さんへの愛情に打たれた。久しぶりに面白い男の人に出会った感じだ。移転がうまくいくことを祈らざるを得なかった。
取材・文:森まゆみ
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
http://www.yanesen.net/
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