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2022年03月02日更新
根津の釜飯屋さん「松好」の3代目は爽やかで商売熱心なイケメンだー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.35
作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は焼き鳥も人気の釜飯屋さん「松好」へ。(編集部)
釜飯屋は始めて60余年。一族みんな商売やってます
古い店である。雑誌「谷根千」は最初からこの店に置いていただいていた。
しかし、当時は子供も小さかったし、あまりお店で食べた記憶がない。配達も別のスタッフの区域だった。何年か前、谷根千を案内したあとにここで8、9人で打ち上げをしたことがある。こんなおいしい店を逃していたのか、と悔しかった。
入り口はドア、釜飯屋さんらしからぬちょっと洋風のたたずまいだ。今回取材で行くと、店主が一代若返って、まだ37歳の晃(ひかる)さんになっていた。緊急事態が明けない9月の末なのに、ひっきりなしに客が来る。「お好きな席にどうぞ〜」と若い女性スタッフが案内する。
愛されているお店である。私と同行者は釜飯をふたつ、オーソドックスな五目釜飯に、フォアグラとトリュフ塩釜飯という超変わった釜飯を頼んだ。ほかにサンマ釜飯とか、鮎釜飯とか、いろいろある。焼き鳥も売りなので、そちらも希少部位を3本ほど。どちらも大変においしい。
――松好さんは、串揚げのはん亭さんともご親戚とか。ご商売をされている方が多いんですか。
「一族みんな商売やってますね。もともと、この隣に『すし初』というのがあって、そこが祖母の照子の実家でした。照子はついこの前、96まで元気で、この店の上に一人で住んでいたんですが……いたら、もう少し歴史など話してもらえたかもしれないです。『すし初』は、今は湯島に場所を移して、いとこがやっています。
照子の異母姉妹の息子が、はん亭の高須治雄です。うちの父の潔は、高須の叔父がはん亭を立ち上げるときに手伝った、と言っていました。
観音通りにある赤ちょうちんのすみれも最初照子がやっていて、それを別の異母姉妹が継いで、最近までやってましたが、その人も去年の暮れに亡くなって……いま休憩してますが」
――一杯飲み屋のすみれさんも根津の名店でファンが多いです。私もすごく気になってるんだけど、まだ行けてなくて。「孤独のグルメ」にも出ましたよね。カレーライスがおいしいとか。
「そうですそうです。サバカレー。ほかにも、父・潔の妹がボブヘヤーという美容院をやっています」
――すごい。根津のマフィア(笑)? 一族で集まったりするんですか。
「みんな近くに住んでいるので、とくにはないですね。冠婚葬祭ぐらいで」
――では松好さんの歴史を伺いますね。
「祖父の松井正二がこの釜飯屋を始めて60数年です。その前の2代は洋品屋でした。1908年(1918年?)頃に静岡から出てきたそうですが。僕は釜飯屋としては3代目、根津では5代目になります」
――ひゃあ。そんなに長い歴史があるとは知らなかったです。何で洋品屋さんが釜飯屋さんになったんでしょう。
「それは全くわかりません。このあたりに釜飯屋が少なかったからだと思うんですが。うちはいい加減なので、正確な記録も記憶も残ってないんですよ。洋品屋では結構、若い人向けの最先端の感じのものをやっていたようですが」
――当時としてはハイカラな、新しい風を吹かす商売だったんでしょうね。それで、お祖父さんは、どこかで釜飯の修業をなさったんですか?
「それもわかりません。祖父の頃の釜飯のメニューは5種類くらいでしたが、定番の五目釜飯とか、当時から続いているものはほぼ変えていません。そのあと、父と私でいろいろ考案して20種類くらい開発しました。祖父は30年前に亡くなって、雑誌『谷根千』を置いていた頃は、父の松井潔と母のはるひがやっていたと思います」
--お店の前の不忍通りは、拡幅でセットバックになっていますが。
「それはもうとっくに済んでいます。昔は今の店の面積の半分で、隣は父の妹がワイズクラブという喫茶店をやっていたんですが、やめたのでその分を広げました」
スタッフには、楽しく働いてもらいたい。ここでの時間を有意義に
--晁さんは根津育ちですか。
「はい。僕は藍染町で育って幼稚園は寛永寺幼稚園。バスでお迎えがありました。子供の頃は根津にもまだ空き地や路地が残っていて、外で遊んでいましたね。小学校は誠之小学校、森さんの後輩です。中学からは北区の聖学院に行きまして。両親は忙しかったので、母方の祖父母に世話になりました。
母方の祖父母は青山にいたんですが、僕たち、3きょうだいを育てるために根津に引っ越してきてくれたんです。姉と妹がいまして、姉は店を一緒に手伝ってくれて、今日も厨房にいます。妹はうちの家系には珍しく会社員をしています。
僕は子供の頃からゴルフをやっていたので、本当はプロゴルファーになろう、なれなかったらゴルフ関係の仕事につこうと思ったこともあり、卒業して一度は会社に就職しました。でも少しして、父がちょっと体調を崩しまして。
いまは元気なんですけど、そのときは手伝わないと立ち行かないかなと思って会社を辞め、2007年からここに入り、26ぐらいで代替わりしました」
--そんな若くてお店を任されてご苦労はありましたか。
「目の前にある仕事を一生懸命やるだけだったので。会社に守ってもらえる安心感はないですけど、自由にできる面白さはあるかもしれないですね。
父からは経営も調理もほとんど教わってないんです。そのときは長年のベテランの職人がいたので、その人に教わったり、見聞を広めるためによそのお店でも働きました。
うちは実は両親は離婚しまして、父が再婚して子供が5歳。父のほうは観音通りで『まつい』という焼き鳥屋を個人でやっています」
――わぁお、そんなこと書きませんね。
「いえいえ、書いてください。そのほうが話が面白いし。父もまた元気になったので、商売したくなったんでしょう。母のほうは、姉と藍染町の実家に住んでいます」
--お店は、いつが一番大変でしたか。
「店の歴史60年を知っているわけではないですが、まずはバブルがはじけたとき。バブルの頃は断るのに苦労するくらいお客さまが見えたようですが、そのあと、父は結構苦労したみたいで。詳しくは聞いてはいないんですが。
自分が知っているのではリーマンショックですかね。それまでは10名、20名の大きな宴会がしょっちゅう入ってたんですが、ぱったりなくなりました」
――それから、どんなふうにお店をやっていこうと。
「リーマンショック後、お酒を楽しむことよりも食事がメインになった気がします。むしろ家族でお食事という方が増えました。お酒を飲まれない分、最後の締めにデザートがほしいというので、デザートも何種かそろえました。
洋のものが好きなので、メニューも完全な和だけでなく、洋風の素材を和にどう取り入れられるか、作り変えられるか、ということをやっています」
――そもそも洋品店ですものね。フォアグラの釜飯って?と出てくるまでドキドキしましたよ。いくらも入って、アクセントになっていて。
「好き嫌いは分かれると思うし、たまに失敗するときもあるんですけど(笑)。お客さまに『え、どういうこと!?』と、新鮮味をもってもらえたらと。
うちは老若男女、いろんな方が見えます。カップルも、女子会も、ご家族も、おひとりさまも、それぞれのお客さまにあわせて、いろんなふうに楽しんでいただける店作りを心がけています」
――リピーターになってもらうコツってあるんですか?
「それがわかれば、もっと繁盛してると思うんですけど(笑)。杓子定規にやるよりは、そのお客さま、一人ひとりの顔を見ながら、なんて言うとエラそうですけど、今、何を希望されているのか、たとえば、メニュー以外のものをお出しするのも、個人店なので、ありかな、と」
――サービス精神が旺盛ですね。
「お客さんに教えていただいたり、失敗しながら覚えてきたことがほとんどじゃないかと思います。根津という土地は、常連さんが私よりも少し年が上の方が多くて、かわいがってくださって、一緒にゴルフに行ったりもします。年に一度、北海道から見える方もいます。ほぼ毎日見えて焼き鳥でお酒という方もいます」
――テイクアウトもやっているんですね。
「コロナ前からやってはいたんですけど、大々的に始めました。テイクアウトをやったことによって、店に入りづらかったお客さまが、おいしかったと、また店にいらしてくださったり。
売り上げ的には下がってますけど、そういう意味ではチャンスになっているというか、未来につながっている部分も多少はあるんじゃないかと。大げさかな(笑)」
今日はこんなに一杯だが、昨日は3組だったという。
「快晴なので今日は多いかなと思うと、全然だったり。一応、準備は予測をたててやりますけど、本当に読めなくて。
これからは、家族5人でどうですかとか、接待でこんなコースとか、店の側からご提案してもいいかと思います。赤ちゃんも、お子さんもうちはウェルカム。子供さんが2階がいいと階段を上っていくことも。半個室みたいになっています」
――たしかにコロナを経験すると、もう20人でどんちゃん騒ぎとかはあり得ないような気がしますね。一緒に働いているスタッフの方に心がけていることはありますか。
「縁あってうちで働いてくれるスタッフには、楽しく働いてもらいたいと。今の時代、働くならどこでも働ける。店を嫌いになったらすぐやめられる。だからここで働く時間をなるべく有意義に、働いてもらってありがとうという気持ちで、しかし仕事そのものには厳しく、そのバランスをとりながらやっていけたらと思っています」
イケメンで商売熱心な晁さん、爽やかで一生懸命である。
「同じことばかりやっていても飽きられてしまいますし、新しいことを入れていかないと。お客さまも世代が変わっていきますし、時代、時代で新鮮な体験を味わってもらえるように」
次はサンマの釜飯。砥部焼のカップでビールが飲みたい。
取材・文:森まゆみ
当連載のアーカイブーSince 2018ー
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
http://www.yanesen.net/
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2022年03月02日更新
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