2021年12月23日更新

不忍通りにある柴田商店は四代続く手書き提灯のお店ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.32

作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は手書きの江戸提灯で知られる柴田商店へ。(編集部)

根津の不忍通りにある柴田商店。今ここは拡幅工事がされつつあり、すでにセットバックして建て直した店舗のガラスごしにたくさんの提灯が飾られているのを気になりながら、今まで訪ねないでいた。

最初は提灯屋をやるつもりはなかった。手伝っているうちに本業になってしまって


ーー提灯に書かれた文字……御太鼓座(おんでこざ)、黒澤明、いろいろありますね。

「あ、ここにあるのは大体、間違っちゃったやつ。納められないからいろいろ書き足して、ここに飾ってあるだけ。ちゃんと書けたものはお客さんのところに行っちゃうからね。だから、あんまりまじまじと見られると」と細身のご主人、四代目の柴田慶一さんは笑う。

ーーいつから根津でやっておられるのですか。



「初代は柴田和重郎といって、岐阜から出てきて、明治29年に下谷上車坂で創業しました。住み込みの職人として勤めていたおじいさん(計さん)が、和重郎の娘であるおばあさん(秋子さん)といっしょになって、昭和5年頃、千駄木町に店を構えた。それが、いまのみずほ銀行の宝くじ売り場のあたりで、右隣が清水書店、左隣が小松さんて乾物屋さんだったかな。


うちはそのころ、表店は柴田商店という洋傘屋で、提灯とか書きものの仕事は奥のほうでやってたんだ。まあ提灯屋って、お祭りとか、季節ものの仕事だからね。お店の提灯っていってもそんなにたくさん仕事があるわけじゃなくて、町会のテントや建設現場のシートに『〇〇町会』とか、『〇〇建設』なんて文字を書いたり、あとはお店の日除けとかね。この狭いところで、シートを畳んだまま書くんだよね。


仕事は一家総出でやってたんだろうけどさ。うちのおじいさん、おばあさんはわりと長生きで、おばあさんは明治35年生まれで97歳まで生きていたもんなあ」

ーーそれで、三代目がお父さん。



「親父の文作は、埼玉県の、ちょうど花園インターのあたりの生まれで、うちに住み込み弟子で来て、おふくろの和子と一緒になった。二代続けて婿に入ってるんで、うちは圧倒的に女の力が強いね」




ーーお父さんはどんな方でしたか?


「親父は大正11年生まれだけど、戦争に行かなかった。兵隊検査ではねられたんです。蓄膿症でね。恥ずかしくて帰ってこられなかったって。



父の兄は硫黄島の摺鉢山で玉砕ですから、父も戦争に行ってたら死んでいたでしょうね。うちの親父と同じときに兵隊検査でとられて行った人は全滅だったし、行かなかったから助かって生きのびてる、という気持ちが強かったんじゃないかな。戦争に行ったけど助かった人とは、そこは違うんだよね。戦争の話は絶対にしなかったね。

去年、おふくろも90歳で死んだけど、千駄木で空襲に遭って、弟の手を引いて逃げまどったらしい。おふくろも最晩年まで、そういう話はあまりしなかったね」


--慶一さんは戦後の生まれですよね。

「僕は昭和30年生まれで、森さんより一つ下かな。幼稚園は根津幼稚園。根津教会が幼稚園をやっていたんです。姉は区立の汐見幼稚園だったんだけど、年子で学年が一つしか違わない場合、当時はなぜか兄弟で同じ幼稚園には行かせてくれなかった。クリスマスとか、礼拝とか、クリスチャンじゃないのにね。


でも、根津教会って意外と歴史が古いんだよね。牧師さんのほかに園長先生もいたよ。学芸会とかお遊戯にもマリア様が出てくるし。今でも賛美歌、歌えるよ」



--それは異文化体験でしたね。でも、根津みたいな下町に教会があるのは面白いですね。東大が近いので、まずそうしたオピニオンリーダーをキリスト教にすれば、早く広まるんじゃないかということだったんでしょうね。

「戦後10年たって生まれた僕らの世代って、完全にアメリカ文化だったでしょ。進駐軍が入ってきて、テレビが入ってきて、いちばん最初に見たの、アメリカのドラマばかりだからね。『ララミー牧場』とか。もう少しあとには『奥さまは魔女』とか、『じゃじゃ馬億万長者』とか」


--そうそう。「名犬ラッシー」に「うちのママは世界一」「パパは何でも知っている」とか、夢中になって見ましたね。それで、千駄木からこちらに移ったのは?

「千駄木から根津に越したのは昭和36年、小学校1年の時です。根津小学校に通いました。いまの家は、25年くらい前に建て替えましたけど。建て替えたときに洋傘屋は辞めて、提灯を店の前面に出しました。

文京八中から向丘高校、そして桑沢デザイン研究所でグラフィックデザインの勉強をして、最初は提灯屋をやるつもりはなかった。家の仕事が忙しくなってきて、手伝っているうちにこれが本業になってしまったんだけど」




教本はとくにない。自分ちの文字をだんだん覚えていく


--それじゃ、さまざまな書体とか、字配りとかはお手の物ですね。

「今は何でもコンピュータでできるようになったけど、提灯はもちろんすべて手で書きますよ。


お客さんがよく『江戸文字』なんて言うけど、どういう定義で言っているのか、ちょっとわからない。でもさ、なんとなく江戸っていうと、雰囲気だけはわかるじゃない? ただ、それぞれでイメージしている文字は違ったりするからね。それで受けてしまうと、あとでこれは違う、ってなってしまうから、僕は『提灯の文字でいいですか?』って聞くようにしてるけど」


--提灯の文字というのは、勘亭流の文字なんかとも違うんですね。

「勘亭流というのは『歌舞伎文字』ですね。「笑点」でおなじみの落語家だった橘右近さんが考え出した『寄席文字』というのもある。催事のビラに使われていた『ビラ字』をアレンジして、昭和40年頃につくられた書体だと聞いています。右近さんは亡くなられましたが、そのお弟子さんの左近さんとか、いろいろいらっしゃいます」


--寄席文字はそのぐらいからの歴史なんですね。提灯の文字は、お手本とか、テキストとかがあるんですか?


「とくにはないけど、自分の店や師匠独特のかたちというか、自分の家の文字を、塗り込みなんかしながら、だんだん覚えていくんだよね。あとは、先輩がつくった書体を表にしたものなんかがあって、いいところは取り入れたりしながら、書いてるよね。


基本は楷書。一つのやり方としては、一筆で書くのではなくて、提灯の火袋はデコボコですから、まずは文字の枠をとってその中を塗り込んでいくの。提灯というのは暗いときにつける照明だから、遠目がきく、はっきり見える、ということが一番大事なんですね。でも、実は提灯の文字も、楷書も使えば行書も使うし、いろいろあるんだけれどね」



--この、「山城」の文字の周りの髭というか、サボテンみたいに生えているのは? 不思議な書き方ですね。

「それは外がすりというんだよ。内側だと内がすり。髭文字っていう人もいるけどね。筆文字のかすれやにじみを表現したり、強調しようとすると、そういう書き方もあるんだよね。縁起がいいとされているデザインです」




ーー提灯に文字を書くだけじゃなくて、紙を貼るところからなさるんですか?



「やらないですね、東京は全部分業だから。そういうのは、水戸とか、名古屋で作ったのを仕入れてきます。

全部やるのを『地張り提灯』と言います。今でも地方でやっていらっしゃる方がいるかもしれないですが、今は私は知りません。20年ぐらい前までは、佐藤さんという函館の提灯屋さんがやってましたけど、今は廃業しています」



--提灯にもいろいろな形があるんですね。


「関東と関西では提灯の形が微妙に違うんですよ。東京のほうでわりとよく使っているのは、丸みがあってふっくらした形をしているよね。関西のほうは肩の丸みが小さく、ズドンとした印象です。高さや大きさも違うのね」


--「お猿のかごや」に出てくる小田原提灯というのは?

「これですね。携帯用で伸縮自在でたためばペタッと平たくなる。便利なもので、外国人はびっくりして、買って帰りたいと言います。提灯の上下の飾りの部分を重化(じうけ)というんだけど、これはこより作りになっていて、ちょっと凝ってるんだよね。

昔の仕事は、もうそのまま復元はできないよ。昔の人の仕事は本当によくて。竹のひごも全然昔どおりにはできないので」




--千駄木の安田邸などに行くと、お客様を門まで、あるいは停留所までお送りする提灯がたくさん、四角い箱に入ってあります。


「手丸提灯ですね」

--いわゆる飲み屋の赤提灯もありますね。

「最近は少ないね。近くの『鶏はな』さんは、うちの提灯を使ってくれています。いまは結婚祝いとか出産祝い、新築祝いに提灯を差し上げるので、注文してくれる人も増えました。それと、東大の留学生とか、外国人観光客が自分の名前を入れて買っていきますね」



--紋も書かれるんですね。以前、『吾輩は猫である』を若い人たちと読んでいたら、紋付きがわからないという学生がいて。


「紋付きを着る人も減ったからねえ。紋を書くのでも、複雑に見えるから難しい、っていうわけでもないんだよ。直線の二引とか三引とか、単純に見えるもののほうがかえって難しい場合もある。


たとえば、藤の紋とかは、1個1個の形が多少違ってもごまかせるけど、この四角が四つ並んでいる紋とかは、四角の大きさや間隔が同じでないと、すぐにわかるでしょ。ちょっと大きさが違うだけでも、なんか違うなってなるから、そういうほうが難しいの。まあ、四六時中、筆を持っていた昔の人にかなわないよね」




--森家はほら、日航みたいな、鶴のマーク。

「あれはめんどくさい(笑)」

根津神社の祭礼もコロナで2年続けてやらないから、どうも盛り上がらないね


――文字は墨汁で書くんですか?

「いまは、水性絵の具ですね。乾くと耐水性になるんです。子どもの頃は、折れ墨っていう製造工程で傷がついたような墨をすり鉢でガラガラと擦りながら、少しずつ水を加えて膠(にかわ)を足して、墨汁をつくっていたけどね」



--そういうお手伝いをしていたんですか。

「そうですよ。お小遣いもらって、根津神社の地口行灯を張り替えたりね」


--地口行灯(じぐちあんどん)っていうのはどういうものですか?

「地口っていうのは、まあ、駄洒落だね。有名な芝居の台詞とか昔のことわざなんかをもじった言葉遊びで、それに合わせた滑稽絵も描くんですよ。側面に奉納者の名前を書き入れて、お祭り用の四角い行灯に仕立てる。

それにしても根津神社って結構広いよね。子どもの頃は普通だと思っていたけど、よそに行くと、有名な神社でも小さいところがいっぱいあるよね。


ーー東京にしては広い境内の神社ですよね。

「ただ、いまは根津神社はほとんど提灯を使わないでしょう。お祭りになっても、境内に奉納提灯なんかないでしょ。浅草の三社さまなんかは、たくさんあります。神社によって違うんだよね」


ーー仕事の依頼は、神社から直接来るんですか?

「いや、神社から仕事が来るっていうよりは、町内の人が持ってきてくれるのを、ぼちぼちやるっていう程度ね。あまり、地域を超えたところまで、自分たちから営業したりはしないね、昔から。そこの商売を壊すようなことはしない。でもいまはどちらかというと、地方の神社の仕事が多いですね。

このところ、根津神社の祭礼もコロナで2年続けてやらないから、どうも盛り上がらないね。お祭りが全滅なのは痛手です。お祭りも2年やらないと、今までどおりやれるか、わからないものね。役員さんだって、2年空いてしまうと、引き継ぎもしにくいね。次のお祭り、ちゃんとやれるのかな。

やっぱり根津の町は神社とそのお祭りでつながっているんじゃない? 御神輿担ぐ人は担いだらすぐ帰っちゃう。その準備をしたり、後片付けや掃除をするのは町役員の人でしょ」

--昔は神社大切、お祭り大好きな怖い町会長とか商店会長とか、いましたからね。

「昔は、ちゃんと町に鳶の頭(かしら)がいて、祭りになると提灯も家ごとにとりつけて歩いていたけどね。そう、小山の頭。穏やかないい頭でね」

--先々代が弥生坂のどん突きで菊岡亭という寄席もやっていたんですよね。

「昔はそういう小さな寄席が町場にいっぱいあったっていうんだけどね、そこまでは覚えてないなあ。小山さんも亡くなって、跡継ぎはいなかったんじゃないかな。今の町頭は四区一番組の関谷の頭。最近は息子のテルさんにお世話になっています」

--そういえば、谷中の瑞林寺の前にも提灯屋さんがありましたね。

「あ、小林静山堂さんね。静山堂さんも古いから。小林さんは墓石の文字とかも書いてたでしょう」



--町は変わったでしょうか。

「変わったんじゃないですか。このところ、お店が次々なくなっていきますね。不忍通り沿いはほとんどマンションになっちゃって、うちみたいな個店はほとんどないでしょう。その一本向こうの筋でも、鴨肉なんか売っていた『鳥勘』さんもなくなったし、角にあったお惣菜の『ごきや』さんもないし。今はハンバーガ-屋さんになっちゃった。

ビルのオーナーになって、商売を辞めちゃった人も多い。寿司屋がないね。魚屋もなくなった。昔は観音通りでも藍染め大通りでも、八百屋、魚屋、肉屋、豆腐屋とそろって便利だったんだけどね。もう、店に行くより、家で食べるよ。よみせ通りの山長で刺身買ってね。谷根千が流行っているったって、新しいお店ばかりですよ」

ーー雑貨屋のあんぱちやさんもなくなってしまいましたね。近所で飲んだりなさるんですか。

「昔は飲み友達がいましたからね。20代のころは、三崎坂の『町人』とか、向丘にあった『若竹寿司』とか、少し離れたところに友達と入り浸って飲んでたなあ。もうそんなこと、なくなっちゃけどね。あとはこの辺では『木菟(みみずく)』とか」

--懐かしいな、あそこは画家の鶴岡正男さんのお嬢さんがやっていた。

「詩人の諏訪優の息子の太郎君がカウンターの中にいたね。あと近所だと『甚八』は、まだネットとかもない頃から有名で、撮影もしょっちゅうやってたね。飲みに行っても断られちゃったり。あのおじさんももういないね。変わった店だったよね」

--私、あそこの仲居をやったことがあるんです。雑誌「谷根千」を始める前に「今度、私たち、こういう雑誌を出します。置いてもらえますか?」って挨拶に行ったら、おじさんに「年末ですごく忙しいんだけど、手伝いに来てくれたら置いてあげるよ」って言われてね。それで大変な目にあったのよね(笑)。ご主人が忘れっぽくて、つまみは出たり出なかったり。勘定もよく覚えてなくて。慶一さんは、お酒は強いんですか?

「コロナになって、今年の初めに健康診断したら、血中のγ-GTPの値が高すぎて、医者に酒に気をつけろと言われて。やめて半年ぐらいなんだけど、数値上は元に戻ったから、また飲みたいんだけどね。かみさんも一緒に止めちゃったからね」

--あ、さっき出て行かれた方は奥様ですか。いかにも、根津のおかみさんみたい。粋な感じでしたね。

「うちのカミサンは鹿児島の薩摩川内の出身で、加奈子といいます。ずっとお箏をやっていて、東京まで習いに来ていたから、この辺は結構長いんです。上野の芸大出て、お箏の先生なんで、今日も女子高に教えに行きました」

--どんなご縁で。

「僕のバイク友達がやっぱり芸大出身の尺八吹きで、渡辺峨山と言うんです。昔、箏座(ことざ)っていう邦楽器のバンドをやっていて、今でも和食のテレビ番組のBGMでかかったりしますよ。私は彼に尺八を習っていて、それが縁で知り合ったんです」

後継ぎはいない。朝は9時頃に店を開け、淡々と頼まれた仕事をする。壁の上のほうに、材料込みの値段が書いてあった。祭礼用の高張提灯は22000円~、長弓張提灯は11000円~。

「手間によっても変わってくるので、目安でしかないんだけどね。家紋が入って、名前が入っただけっていっても、30分でできる手間のものもあるし、2時間、3時間かかるものもある。それが同じ値段というわけにはいかないからね。でも、まあ、お客さんが喜んでくれればいいなと思うしね。それだけだね」

取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/
連載もの: 2021年12月23日更新

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