2021年05月06日更新

「カフェ さおとめ」のある動坂下には、今もおっとりした風情があるー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.28

作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は動坂下の「カフェ さおとめ」へ。(編集部)

パン屋から喫茶店に。動坂は賑やかで、神明町には花街もあった


動坂下は谷根千地域の隅っこである。地下鉄千駄木駅からもJR田端駅からも遠く、それだけ開発が遅れ、今もおっとりした風情がある。そこにある「さおとめ」は今でこそ喫茶店だが、元はパン屋さんだった。ご主人の早乙女貞夫さんは、今日もコックさんの着る白い上っ張りで現れた。



「長い話ですよ。ここに来たのは昭和22(1947)年ぐらいかな。まだ戦後間もなくで、前っ側は空襲で焼けていました。

うちの父は早乙女一栄(かずえ)といって、女みたいな名前なんだよね。栃木県には早乙女という名前があります。祖父の代で東京に出てきて、祖父は深川木場で木材問屋をやってたんですが、これが酒飲みで、40そこそこで死んじゃった。

父はもともと和食の職人だったんですが、団子坂の菊見せんべいさんの斜め前、今は喫茶店になっているところで「おとめパン」というパン屋を始めたんです。琵琶橋のたもとですね。本郷区坂下町7番地」

――懐かしいなあ、琵琶橋だなんて。藍染川は関東大震災の前まで流れていたんですね。

「うちの父の弟が言い出しっぺで、一緒にやらないかというので、父も和食の料理人をやめてパン屋になった。パンを作るというより、パン職人を束ねて経営したほうだったんです。そのときの写真があそこにあります。昭和9(1934)年ですね。



その後、父の弟が亡くなり、そこはたしか娘さん3人ぐらいで後継ぎがいなかったので、パンのほうはやめたんですよ。その時の番頭さんだった方が落合さんといって、根津銀座で中華オトメをやっておられます」

――はい、前にそのお店も取材させてもらいました。ご主人は生まれたのはいつですか?

「私は昭和13(1938)年3月の生まれで、こないだ83歳になったばかり。幼稚園は慈愛幼稚園といって、谷中の瑞輪寺の門前にありました。戦争の途中で、最初、母方の実家のある鴨川に縁故疎開したんです。

その後、鴨川はアメリカ軍の軍艦の艦砲射撃があるから危ないというので、父方の栃木の実家に近い親戚に疎開して。栃木の小学校に通いました。

その家の人は学校の校長をしていて、いわゆる教育者だったんです。それで当時、その辺りにはまだ幼稚園がなかったので、就学前の子供たちが集団でどんなことをしているのか、興味があったんでしょうね。幼稚園ではどんなことをしていたのか、話してくれというんですよ。クラスのみんなの前で折り紙を折ってみろとか、お遊戯をしてみろとかね」

――貞夫さん、ごきょうだいは?

「私は5人きょうだいの二番目なんですよ。みんな亡くなって、すぐ下の妹しかいない。一番下の弟も、若くして亡くなりました」

――疎開先ではいじめとか、嫌な思いはされませんでしたか?

「私が鈍かったんでしょうね。今思えば、東京モンはこんなことも知らないのかなんて言われましたが。だからこの辺で空襲にはあってないです。父は東京にいて、もう材料もないのでパン屋はやらずに、食料配給の仕事とか、警防団をしていました。自分のうちが焼けるのも見たと言ってましたよ。

それで戻ってきたのが昭和21(1946)年頃、小学校3年だったかなあ、学校給食が始まるちょっと前でした。創業した元の場所には戻れなくて、最初はよみせ通りの魚長という魚屋さんの隣の角に来て、商売を始めたわけです」

――あれはGHQの肝入りで、小学生たちに飢えないようにちゃんと食べさせるということで、コッペパンとか脱脂粉乳とか。

「そうですね。東京に戻ってからは、学校給食の初期から、文京区の区立の小学校のパンを扱っていました。昭和小学校と千駄木小学校、追分小学校、三つくらいやってたかな。食糧庁から小麦粉とか脱脂粉乳とか、食材が配給になって、作り方のレシピというのか、こういう配合で作ってくれとくるんですよ。でもね、給食のパンがまずいと、あのパン屋はダメだなんて評判が立っちゃうからね」

――というか、あの頃の学校給食は、クジラのコハク上げとか、ちくわの天ぷらとか、パンと合わない組み合わせなんですもの。

「そうね。とにかく忙しくてね。そこも狭かったので、どこかに越そうと不動産屋に聞いたら、『東京でこれから伸びるのは、麻布十番か、上野・広小路の赤札堂の裏のあたり、それと動坂か、この三つがいい』と言うので、ここにしたんですよ。

動坂町194番地。今は文京区本駒込。動坂は映画館も動坂シネマと進明館と二つあって賑やかで、神明町には花街もあったので、ここがいいんじゃないかと。昔は都電が走っているところがメインストリートだったのに、都電がなくなったら、どこが中心かわからなくなっちゃって」



子供の頃から家業の手伝い。ずっと忙しくて夢中でやってきた


――学校は千駄木小学校ですね。

「この近所は千駄木小学校なんですが、僕は疎開から帰ったときはよみせ通りの坂下町で、汐見小学校に編入したものですから、動坂に越してからも、歩いていけないわけじゃなし、千駄木小学校の前を通ってそのまま汐見に通って、卒業しました。

親は商売で忙しくて、朝飯なんか作る暇はないしね。それこそ焼き芋なんかをかじりながら、坂を上がって、千駄木小学校の前を通って通学していたら、千駄木の高台のおじさんに捕まって、『芋食いながら学校行くとはなにごとだ! 何年何組だ』と怒られてさ。それで汐見小学校の学級を言ったら、千駄木小学校に通報されてて、そのクラスがお小言を食ったというんです(笑)。それから九中です。まだ文林はなかった。

その頃からもう家業の手伝いをしてました。中学生の頃から朝4時に起きて、給食用に食糧庁から届く25キロある小麦粉の袋を二袋ずつ、何回も往復して倉庫まで運ぶから、背が曲がって大きくなれなかったね」

――この辺で古い方というのはどなたでしょう。

「横川の金物屋さんが古かった。あそこは建築金物、家庭金物、園芸用品と3兄弟でやってました。勉強堂薬局さんは娘さんがまだやってる。息子さんは2階で皮膚科の医院をされています。沢田写真館さんは戦前からの大地主でね。去年、ご主人が亡くなられて残念です」

――神明町の三業地を覚えていますか?

「売春禁止法のころは学生ですからね。最後の芸者さんというのが、スナックのマスターと駆け落ちして、神明町の花街が終わりを告げたというのは聞いたことがあります。ちょうど私があの辺りのスナックで飲んでた頃の話ですよ。あの当時、池袋から上野までの間では、今の駒込アザレア通りのあたりが一番賑やかでしたね。あの辺に神明町の花街から出てくる客をタクシーが待っていました」

――それからずっと学校給食ですか。さぞ収益があったのでは?

「でもね、学校給食って、1年のうち200日ないんですよ。さらに、うどんだのスパゲティだの入ってきて、日数が少なくなって。そのうち、親父が町会長の時に文京区議になって、区議が区立の学校給食のパンを納入しているのはおかしいんじゃないかなんていう人が出て、父はすっぱり学校給食をやめちゃったんですよ。ちょうど潮時でしたね」

――他にどんなパンを作ってたんですか。

「クリームパンとか、カレーパンもありましたよ。でも、菓子パンはまだあんまりなかったかな。とにかく食べ物がない時期でしたから、ご飯の代わりになるように、コッペパンとか食パンを買って、ご自分で焼きそばとか、ソーセージを挟むんですよ。私は裏の工場のほうにいたので、店のことは家内のほうが知っているでしょう」



――そうそう、奥様はどこから嫁いでいらっしゃいました?

「オリンピックの2年前に、家内は台東区池之端七軒町から来てくれました。今も新ふじというお蕎麦屋さんがありますが、その隣で『大黒屋』という食堂をやっていました。美智子といいます。自分ちも商売家だから商売は好きみたいで」

――どういうことでご一緒に?

「高校生のとき、都電の中で知り合ったんです。家内は池之端から乗って上富士まで。僕は動坂から乗って早稲田の高等学院に通っていました。落語家の古今亭志ん朝さんも九中の同級生で、同じ電車だった。彼は獨協に行ったんだね。あの頃から人気があって有名だった。

私は早稲田の文学部国文科に入ったんですが、ちょうど20歳のときにお袋が48歳で亡くなって、大学はやめてしまいました。学校給食も一番忙しい時期でしたからね。

あの頃の早稲田は面白い子がいたの。高等学院の時の隣の席の玉井くん。国語や古典には出てくるが、数学や理科は一切出てこない。単位が足りなくてそのうちやめちゃったんだけど、大学に行ったらまたいるんですよ。それでよく聞いたらね、『花と龍』で有名な、北九州の玉井組組長・玉井金五郎の孫、つまり作家の火野葦平の息子だったんですよ。

フランス語の先生も、『私のクラスに出るより、フランスの映画見たほうがいい』なんて言う先生もいて、そうしたら、『じゃあ、行ってきます』って、新宿のフランス座に行った奴がいたな。ストリップ劇場ですよ」

――あら、面白い時代ですねえ。

「それどころじゃないの。忙しくて退学届けを出しに行く暇だってないくらい。新婚旅行は熱海と南紀白浜に行ったけどね、あの頃、ブームだったから。夜行列車で帰ってきて、そのままカミさんと一緒に白衣に着替えてすぐ仕事を始めたな」



――喫茶店にされたのはいつからですか。

「1972、73年頃かな。子供たちが生まれた後だね。このあたりには喫茶店がなかったので、徐々にお客が増えて、一時は朝開けると30分もしないうちに満席になって、『俺のほうが先だ』なんて、お客さん同士がケンカになったりしたね(笑)。

親父も夏場はミルクホールのようなことをやってて、アイスクリームとかかき氷も出していた。パンは冬に比べると夏場は売れないので、その対策もあってね。レコードとかもずいぶんあったんだけど。

裏の工場を閉めてからは、ケーキはうちにいた職人の新宿の店から、パンはこれまたうちにいた職人から冷凍生地で仕入れて、うちで焼いています。昔は大きな石窯があったんだけど、今は窯が小さいので数は焼けませんが。まあ、ずっと忙しくて夢中でやっていたから、子育ての悩みなんてありませんでしたね」

今は次女の友里子さんが中心になって喫茶店を経営、ランチのメニューも充実している。大倉陶苑はじめ、美しいカップがたくさん揃っている。

文・森まゆみ

当連載のバックナンバー

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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.28ー「カフェさおとめ」のある動坂下には、今もおっとりした風情がある


Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


連載もの: 2021年05月06日更新

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