2021年03月22日更新

飴作りは親父にも教えてもらわなかった。後藤の飴・三代目の心意気ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.27

作家の森まゆみさんによる連載です。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は来年で創業100年、後藤の飴へ。(編集部)

夕焼けだんだんの下にある後藤の飴の三代目



谷中銀座の魅力はアイストップに階段があることである。



子供の頃は、こんなコンクリートの味気のない階段ではなく、今にも崩れそうな、大谷石みたいな石段だった。東京大空襲で亡くなった、母の憧れの先輩が谷中墓地に葬られているので、春と秋のお彼岸みは必ず上った段だ。それも実は戦後できたもので、今も細いが、昔は谷中銀座はもっと狭い道で、突き当たりは崖になっていたのだという。



「あの階段を夕焼けだんだんと名付けたのは森さんなんだよね。でもそれは商店街の公募があってのことで、別にコネではないですからね(笑)」



――そうなの。もう「谷根千」も始まってたけど、私は買い物帰りに投票しただけ。あれで賞金1万円もらって、いい思い出。諏方神社でお祝いにバーベキュー大会やってもらったの。



「だんだん」の下にあるのが「後藤の飴」。冬の季節、午後の飴作りのあと、三代目主人の伊藤郁男さんに、お客さんの合間を縫って話を聞いた。





「創業は大正11年。飴屋としては来年で100年になります。うちはとにかく地元のお客さまとお墓詣りの人が求めるものを揃えています。あとは、うちのお菓子を求めて来てくれて、会話をしていってくれる人。そういう基準でやっていますね。



真ん中の上の段がうちのオリジナル。レモン飴も、これは瀬戸内のレモンをヘタだけとって丸ごとすり潰して作っていますから、味が濃いんです。りんごニッキも、僕はもともとケーキ職人ですから、アップルパイの中に入れるプリザーブにヒントを得て作っています。カラフルな市販のドロップを否定するわけではありませんが、小さいうちが同じことをしても仕方がないのでね」



――昔の写真がありますね。



「戦前は、今の谷中幼稚園の横丁に、安八百屋という通称の八百屋さんがあって、安八百屋通りと呼ばれていたんですが、この写真は安八百屋通り時代、昭和10年のお正月に撮ったものですね。安八百屋通りの頃からあるのは、鈴木肉屋さんとうちだけで、代々仲がいいんです。両方三代目。うちの父は10年前に他界しました。母は存命ですが。施設にいるので、コロナでもう1年会えてないけど」





三代目は恰幅もよく、声も大きい。お客さんが入ってきて、「手つくりのハムとかソーセージとか売っているお店がありますか」と聞くと、夜店通りの腰塚ハムまでの道筋を手際よく教えた。



「初代の、うちのおじいさんは伊藤亮温(りょうおん)というんですが、岩手のお寺の中尊寺の小僧に行かされて、逃げちゃった。自分のお寺があるので、そこを継ぐための修行に行ったのでしょうが、長男なんで、出ちゃった以上は家に戻れない。



その後、今度は日光の輪王寺に行ったがこれもダメ。それで東京に出てきて、おもちゃ工場で働きました。そこで後藤さんという人と一緒に会社を辞めて、その人が飴の製法を知っていたので、いわゆる脱サラで露天商をやった。飴を作り、二人で戸板の上で行商をしたのがはじまりです。



今、その後藤さんのお孫さんは、大塚の天祖神社の山道で、洋食GOTOOというお店をやっています。お父さんの代からで、こじんまりしているけど、おいしいお店ですよ。



親父の話ですが、戦前は山手線の各駅に暖簾分けで後藤の飴があった。正確な数はわからないけど、最盛期には15軒近くあったんじゃないですかね。



それで月に一回の定例会があって、今度はどこの弟子が独り立ちするので、無利子でお金を貸して、店を出させるというような相談をした。とにかく攻めようと、やってきたらしいです。僕が20代の頃は、まだ大井町と新小岩と、あと板橋から多摩川のほうに移ったお店があったかな」



エレキの神様・寺内タケシに教わったこと



ーーおじいさんはどんな人でしたか。



「うーん、僕が高校の時まで生きていたけどね。結構厳しい人でしたよ。及川羅漢さんの弟子だから、裸でわっはっは、わっはっは、って。遠足とかにも、乳首の見えるような、あみあみのシャツ着て半ズボンでやってきて。周りのお母さんたちから、『おじいさん、おいくつですか?』『いくつに見える? 当ててごらん』『えー、お若いですねえ』なんて言われるのが楽しみでさ。孫としてはえらく困った。及川さんの奥さんが踊りの師匠だったから、祖父も踊りをやっていました」



――お父さんには長らくお世話になりました。



「親父の栄吾は、子供の頃が戦時中で。岩手の中尊寺の弁慶堂のあたり、北上川がよく見える物見台、そこの小屋に疎開したらしい。帰ってきたら安八百屋通りにあった借地は取られていて、戻れない。で、ここが空いていたので来たんです。18から学校の先生を3年やって、それから飴屋になりました。

親父が20代の頃、森永製菓や、ヤマザキパンとも付き合いができて、パンも扱うようになった。でも、飴屋がパンをやるというのは、勝手に親父が決めたことなので、先代のおじいちゃんは『バカヤロー、なんで飴屋がパンを売るんだ!』って前掛け丸めて投げつけて、3カ月仕事しなかったって(笑)。一時期は大変だったらしいけど、でも、これから先、毎日、日銭が入るとしたら、主食になるものを置かないと、って、当時、親父は判断したらしいです」



――お母さんの敏子さんは、いつも清潔な白い三角巾をかぶって店頭に立たれていました。「谷根千」の16号で、スタッフの仰木ひろみが体験修行させてもらっています。それによると手順は、「コンロに大鍋をかけ、砂糖や水飴を入れて煮詰める。140度にもなるそれを指につけて、歯で噛んで、固さをみる。それに、いろんな味のエキスを混ぜて錬る。さらに棒状に伸ばして、板で潰して、包丁で切っていくとあります。



「その通りですね。丸くしたのを押しつぶして、わざと角にして切るのは、丸いと飲み込んで喉に引っかかるからですね」



――代々、人気の飴はなんでしょう。



「ハッカ飴、生姜飴、きな粉飴、たんきり飴、トンカチ飴、あんず飴なんかですかね。かりん飴も喉にいいし。うちはかりんエキスを入れるんじゃなくて、生のかりんをすり潰して作っています。たしかに、タバコを飲む男性は喉を痛めやすいので、買いに来る方が多いですね。



ニッキも古いんですが、ニッキは好きな人しか舐めないんですよ。辛くしたり、もう少しマイルドにしたり、試行錯誤しながら、いまの辛さに落ち着いたんですけど。



お茶の飴は、商店街の金吉園さんのお茶を家で飲んでるから、それを飴にしたの。ほうじ茶を煮出して、そこに水飴や砂糖を足して、粉を練り込んでいるから濃厚な味なんです。香料は一滴も使ってない。



あんこ飴は、中をこんなに柔らかくできるのは僕だけなんです。晩年、大病して入院中の親父に、『お前、どうやったんだ』と驚かれたけど、教えてあげな〜いってね。そう言えば、また父も意地張ってやる気を出して元気になると思ったんで」




――最初から飴屋を継ぐつもりだったんですか。

「うちは自由人なので、家を継げとは言われませんでしたね。僕は昭和39年生まれで、初音幼稚園から第一日暮里小学校、中学は日大豊山に行きました。水泳が好きだったから。僕の頃は、能瀬慶子って女優さんが通学のバスに乗ってくるんで、みんなワクワクしてましたね。しのぶちゃんって、柴田恭兵さん主演の『赤い嵐』で、その相手役の記憶喪失のヒロインでね。養父養母が谷中銀座の豆腐屋さんという設定なので、この辺でもロケしてましたよ」



――ずいぶんこの辺、ドラマに出ましたよね。



「『ちんどんどん』とか、林家三平師匠の『今年の牡丹はよいぼたん』とか。朝の連ドラの『ひまわり』とか。『野ブタ。をプロデュース』のときは、清志郎さんが、あの有名な盗まれた自転車に乗ってきてたね。



僕が一番好きなのは、松竹の『ワニと鸚鵡とおっとせい』。昭和52年の映画で、寅さんとの二本立てだったんです。ここにロケに来たのが、ハワイで破産したサーカスの一座の樹木希林さんと郷ひろみさんだったんですよ。今の階段よりも古い時代でしたけど。僕、上野の松竹にいつものように寅さん見に行ったら、あれ、うちが映ってる! とびっくり」



――スポーツはずっと水泳をしていたんですか?



「最初はね。でも、そういう学校に行ったら、周りも強いやつばっかりなんですよ。そのあとは吹奏楽をやったり。

音楽にも憧れていたからねえ。あるとき人の紹介で、その頃ときめく寺内タケシさんに会ったの。バニーズ時代の古いレコードを持っていったら、「いくつの時に買ったの」と尋ねられて、『幼稚園の時です』と答えたら、寺内さんが涙しちゃってさ。

僕はブルーコメッツのジャッキー吉川さんに憧れて、幼稚園の頃から、バスドラムはたらい、タムタムは風呂桶、シンバルは鍋の蓋で、長箸で叩いてたから。

それで、『何年生まれだ』から始まって、じゃ、うちのと同じだ、なんだ日大豊山か、俺の息子は藤沢だ、なんて話をしてくれて。音羽のキングレコードのスタジオにも、学校の制服で遊びに行ってた。ブルーコメッツの井上忠夫さんが豊山の先輩なんで、楽屋を制服のままウロウロしたら、おいでおいでと。



そうしたら、ある日、寺内さんが『ドラム叩いてみるか」と。それで、軽く叩いたら、『本当にやりたいのか?』って。でもねえ、こっちは簡単な気持ちで、女の子にモテるかな、くらいしか考えてないんですよ。

寺内さんは、『誰でも一度は売れる。俺も売れたよ。でも今はカップラーメンがご馳走だぞ。それでもやる気があるなら来いよ』と。

その瞬間、ん、と思って(笑)。正直だから。そうしたら、『だからな、もうちょっとよく考えろ。この世界は、好きじゃなきゃやっていけないぞ』と。すごく親身に言ってくれて、優しかったんです。その頃、あいざき進也さんがバンドボーイをやってた。どんな職業でも下積みってもんはあるんですよ。



音楽は諦めたけど、寺内さんが夏休みに不忍池で納涼まつりに出るときは、飴を持って差し入れに行ったりしていました。でも10年くらい前、よみうりホールの舞台を見にいった時には、寺内さん、すっかり僕のこと、忘れていましたけどね(笑)。



イエローモンキーのベースは、日大豊山音楽部で、高校2年の時、ドラムの僕とバンドを組んでいた廣瀬洋一君。彼の活躍を見ているだけでも、本当に涙が出るほどにうれしい。ありがとうと常に思っています」

うちは舐められるのが商売だから(笑)


――ご兄弟はいないんですか。



「親父は、僕という失敗作ひとつしかつくらなかったから(笑)。飴作りは親父にも教えてもらわなかった。横で勝手に見ようみまねで覚えました。最初、僕は専門学校に行って、ケーキをつくっていたので。まさか、親父ががんで入院するとは思わなかったから。



1996年の暮れに親父が入院して、それから15年間ぐらい闘病生活で。それを聞いた母親も調子をくずして。かみさんもつわりがひどくて、挙句の果てにかみさんのお母さんも倒れてしまって。あの時が人生最大のピンチでしたね。



でも、12月の注文が入っているのに、つくれないとは言えないじゃないですか。自分がやらなくちゃいけないから、自分で飴をつくっては、駒込病院の親父のところに持っていって、『これでいいの?』ってチェックしてもらいながら、まあどうにか。かみさんのお父さんも手伝ってくれたからね。年を越して、親父もある程度、復帰できたから」



――お父さんの頃より、種類が増えてますよね。



「親父のときは18種類で、僕は多いときは57種類まで作りましたが、今は30種類以下に絞っています。季節ものもありますし。夏の暑いうちは、ニッキ、ほうじ茶、梅の飴くらい。悪くなったものを売るのはいやなので、それも切れたら、売るのはジュースだけ。今の時期なら5月まで保ちますよ。



ケーキの釜も処分しちゃった。甘食とかは作りたいんだけど。昔菓子をね。親父の残していった甘食の配合は最高だと思っているから」



お客さんがやってきて、『何か子供も年寄りも喜ぶようなのをちょうだい』『遠くに行くのでお土産ならどれ?』『なんか珍しいお菓子ない?』。お客さんの注文に答えて、すすめる。『ありがとうございます』『またよろしくお願いします』と元気な声で送り出す。自家製の自慢の飴のほか、郁男さんが各地で見つけたおいしいお菓子も並んでいる。




「このソースせんべいは、たまたま水戸で見つけて、食べたら、すごい気に入っちゃったんです。それで、『30袋送ってください』って電話したら、『商売ですか?』って聞かれて。『いや、自分で食べるんですけど、商売もやってることはやってますけど』と言ったら、『じゃあ、売ってみる? 卸すよ』って言ってくれて。



僕、直接会いに行かないといやなので、会いに行ったんです。そうしたら、このおじいさん、すごい人でね、会社の隣が全部田んぼなんですよ。そこでとれたお米を自分で精米して、粉にして、蒸して、乾して、煎餅にしてるの。だから、おいしくないわけがない。それだけ、ハートがこもってる。



倉庫を見せてもらったら、茨城のいろんな地域のお米があって、地元の農協の人たちからも、その地域でとれたお米でお煎餅をつくってください、と頼まれるらしくて、『そういうの頼まれて、やってんだー。食べてみて、その地域ごとの違いはよくわかんねえけど、その地域でつくったものでつくってくれっていうから、やってんだー』って。楽しいですよ」



――コロナ禍でご商売は大変ですか。



「うちは正直言ってインバウンドでの外国のお客さまがあったほうだから、特に台湾の人たちがたくさん気に入って買うお菓子があるので、それは止めてもらっています。ただ、他のものを注文して動かさないと、その会社もダメになっちゃうからね。そういう動かし方でどうにか駒を進めています。



地元のお客さんは、はじめから買いたいものが決まっていて、それぞれの店のこともよく知っているから、動きがスムーズでしょ。でも初めてきたお客さんとか、外国の方は、通りを行きつ戻りつして、余計に滞留してるように見えるから。で、谷中銀座は混んでるという噂が立って、コロナの今は行きたくないとかなってしまう。そう見えてしまうのは悩みです。



商店街のことをこうしよう、ああしようと話していたのは、武蔵屋豆腐店の杉田くんが生きてた頃までですよね。もう今年で5年になるのかな。こういうのが売れたぞ、とか、そんな会議をやってたんですけどね」



――インバウンドの前が懐かしいですね。あ、石田良介先生の絵だ。切り絵の石田さんが最初の谷中銀座のデザイナーといってもよかったんですよね。



「親父の時代は付き合いがあったんだけどねえ。うちの包装紙も描いていただいたし。親父が亡くなってから繋がってない。個展のご案内も来なくなってしまったし。八ヶ岳からは戻ってこられたようですが、今はどこにいらっしゃるか」



ーー郁男さんの次の代は?

「息子には、好きなことしろと言ってます。いずれにしても、すぐに家に入れるつもりはない。よその飯を食わないと人間育ちません。あと、息子には友達感覚を持たせないです。親となあなあになっちゃいけないと思っているから」



――テレビとかにも、お店がずいぶん出ましたよね。



「父の時代はよく出ましたが、この18年くらいは断っています。最初の頃、森さんが案内役の『関東甲信越小さな旅』なんかはタレントが出なかったからいいんですけどね。バラエティ番組で、芸能人が来て食べておいしいというのはちょっと困る。

『地井武男さんが食べた飴をください』とか、『あれはないの』とか、本当にそれだけしか売れなくなってしまうから。

『ピタゴラスイッチ』など、飴の作り方とか、そんなのは出たけどね。本当は目立つの好きだし、喋るのも好きなんだ」



声もよく、押し出しもいい郁男さん、「うちは舐められるのが商売だから(笑)、とにかくまずは舐めてもらって。舐めにかかってこい、と(笑)」



オリジナルの飴は一袋380円、三種類で1000円、レモン飴も、金吉園のほうじ茶を濃く煮出して作ったほうじ茶飴も絶品だった。これから地方へ行く時のお土産はこれにしよう。

取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/

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