2021年02月01日更新

パリの味、東京の味。ストレルの洋菓子は谷根千の味でもあるー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.24

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては、店主やそこで働く人にインタビュー。今回は「パリの味、東京の味」と親しまれる洋菓子店「ストレル」へ(編集部)

動坂下に生まれた私のソウルフード。それは都立駒込病院前の洋菓子店ストレルのケーキだった。昭和30年代、本格的な生クリームを使ったケーキはほとんどなく、大抵バタークリームで、仁丹とか振ってあるような硬いお菓子が多かった。



しかし、ストレルのケーキは違った。当時としては「小さくて高い」のだが、私は、この小ぶりなケーキの仕事の確かさ、繊細さに子供ながら驚いていた。雑誌「谷根千」を始めてからは、広告をいただいたり、雑誌を置いていただいたりして、お世話になった。



創業者は長谷川崇志さん、94歳。すでに一線を退き、引退生活。妻の常さんは昭和3年生まれで、今も店に立つ。ケーキを作っているのは一人娘の紀子さんだ。



洋菓子に未来を見た父。昭和の名パティシエから基礎を学び独学で研究を重ねた


――お店はいつごろ、始められたんですか?



紀子「父がストレルを開店したのは昭和33年、私が小学校1年生のときです。店の名前は父がつけました。父は神田の古本屋街が好きでよく行っていたんですけど、ちょうどお店の名前を考えていたとき、古書店で見つけた書物に、1730年創業で現在もパリの二区にある、パリで最古のパティスリー『Stohrer(ストレー)』が紹介されていて、その店名に近い名前をつけたんですって」



――お父さまはもともと、どちらの方ですか?



紀子「大正15年に満州で生まれ、満州で育ちました。祖父は渡辺忠吉と言って、もともと東京の人です。満州に渡って満鉄の機関士になり、汽車に石炭をくべる仕事をしていました。



父は男四人兄弟の三男で、大連や奉天にもいたようですが、英語が敵性外国語になったので、ロシア語を勉強したそうです。戦後、父はシベリアに抑留され、極寒での捕虜生活を3年間送りました。ただ、ロシア語の通訳をしていたこともあり、ほんの少しだけ優遇されてはいたようです」



――何が幸いするか、わかりませんね。それで、洋菓子のお仕事を始められたのは?



紀子「満州から戻った祖父が、山口の宇部で和菓子屋を始めていたんですね。父は昭和23年に帰国したんですが、もともとデザインとか、絵を描いたりするのが好きだったこともあって、和菓子よりも洋菓子のほうに未来を感じたようです。まずは、外国航路船でデザート菓子を担当していた宮本さんという方を紹介してもらい、洋菓子を教わりました。



そのあと、神田のエスワイルの大谷長吉先生のもとで本格的に勉強しました。大谷先生は、横浜のホテルニューグランドのお菓子部門のシェフ、サリー・ワイルさんに学ばれた方です」



――ワイルさんのもとで、たくさんのパティシエが育ったそうですね。大谷さんのエスワイル、元は神田小川町の靖国通り沿いにありましたが、残念ながら閉店してしまって。



紀子「大谷先生は12、13歳と、早い時期から洋菓子の修行を始められたのですが、父は満州から帰ってからですから、早く仕事を覚えなければと、無我夢中だったそうです。



宇部の宮本さんに、エスワイルの大谷さん、それから、日本橋にあったトロイカというロシアケーキのお店の石橋さん。父はこの三人から洋菓子の基礎を習い、古書店でフランス菓子の本などを立ち読みしては、外に出てメモしたりして、独学を重ねたようです。フランス語はそんなにできないのですが、勘が働くのかしら。とにかく研究熱心でした」



常さんと紀子さん

――奥様の常さんは、東京のお生まれなんですか?



「私が生まれたのは、荒川の下町です。実家の高橋の家は、荒川区の三ノ輪で牧場をやっていたのですが、明治42年の大水で荒川が氾濫し、牛が流されてしまった。その後、父・錦蔵の代になって、明治乳業の社長さんが声をかけてくださって、牛乳販売店になりました。この前まで弟がやっていて、牧場時代から数えると150年ほど続いたそうです。



男5人兄弟で女の子は私一人なのに、生まれる前からの約束で、茨城の長谷川木之作という親友の大工の養女になったんです。その家は子供ができなくてね。本当に愛情たっぷりに育てていただきました。ところが、育ての父が亡くなってしまって。小学校5年で実家に戻ったんです」



――長谷川のお名前はそのまま継がれたんですね。空襲のときはどうでしたか?



「実家は三ノ輪の都電の終点のすぐ前。3月10日の空襲で家は焼けなかったんだけど、強制疎開になってね。母のとしと一番小さい弟は、静岡の母の実家に疎開したんですが、兄ふたりと弟と私の4人は、葛飾の金町にいた叔父が疎開をするので、その留守を守ってくれと言われて、そこにおりました。



東京服装学園という洋裁学校が大塚にあって、私はその女学部に通っていました。清水富美さんが校長で、今もその娘さんがなさっていますね。戦時中は兵隊さんの軍服や、傷病兵の着る白衣を縫っていました。特攻隊の兵隊さんの軍服は、ズボンのポケットに弾薬を入れるところをたくさんつけたりね。戦後、荒川区役所のそばに戻りました」


材料は絶対、質を落としたくない


――崇志さんとはどこで知り合ったんですか。その頃の常さんはさぞ可愛かったでしょうねえ。

「主人はね、シベリアから戻ってしばらく鹿児島にいたんですが、東京のGHQ(連合国総司令部)から手紙がきて、呼び出されたんです。情報関係の特務機関にいたので、毎日取り調べを受けてね。でも日当もくれたというのよ。アメリカ進駐軍宿舎のある四谷から有楽町のGHQの庁舎まで、半年ほど通ったと言ってましたね。


そのあと、洋菓子を学び始めたのですが、私の弟が病気をしたりして手が足りなかったので、主人が牛乳販売店の手伝いにきてくれたんですね。それで昭和25年に結婚して、長谷川の姓を継ぐことになりました。夫婦養子ですね」



――常さんのお話だけで、一代記が1冊、書けそうなくらいですね。それで、紀子さんが生まれて。



「はい、西尾久のあたりに小さな一軒家を借りて、洋菓子を作り始めたんです。最初は店舗もなく、上野広小路の交差点近くにあった『ダブリン』というケーキ屋さんに卸していました。主人のつくるモカロールを気に入ってくださって、それを売りたいから、と。

結構売れて、番重(ばんじゅう)という木の箱にモカロールを並べて、主人が古い自転車に何段にも積んで、尾久から上野広小路まで運んでいました」



――番重というのですね。

「ええ。今はアルミ製ですが、昔は木の箱でしたね。『ダブリン』は、裏でバーもやっていて、お客さんがお土産にケーキを買っていくので、夜になると足りなくなるんです。そうすると、私が赤ん坊の紀子を背負って、小さい番重に詰めて、追加のお菓子を届けに行ったりしました。田端まで歩いて、そこから省線電車に乗って、上野の広小路まで」



――遅い時間まで、大変でしたね。それから、動坂上にお店を?



常「ええ。最初は二間間口の小さな店でした。ちょうどこの辺りにあった靴屋さんが売りに出たので、その1軒を買ったのです。弟があの辺は土地柄もいいからと教えてくれて。見にいったら、最初は土地だけで200万くらいしたのかしら。いったん諦めて帰ったんですが、しばらくしてまた来てみたら、建売が2軒建っててね。それで、病院に近いほうがいいだろう、ということで決めました。

高橋の父も荒川から自転車で来て、朝から晩まで立っていて、どのくらい人通りがあるかを数えてくれたりしてね。いい父でした」



ストレルの洋菓子

――お客さんは、最初から割と見えたんですか?



「最初に買いに来てくださったのは、神明町にあった外科病院の院長先生の奥様、モカロールを800円ぐらい買ってくださったのを覚えています。一つ30円くらいの時でしたから。それからも、いろいろ買いに来てくださいました。口コミでお客さまが広がって、電話で『何個持ってきてください』と注文をいただいたり。自転車で配達もよくいたしました。
林町、千駄木町、神明町、大和村など、お屋敷街で、ハイカラな生活をしておられる方が多かったのもよかったんでしょうね」



紀子「小さいときは、『紀子ちゃんのおうちのケーキはおいしいけど、小さくて高いからね』なんて言われたものです。

でも、父は本当にこの仕事に打ち込んで、材料を吟味して作っていました。いま、作る側になってみると、『材料は絶対、質を落としたくない』という父の姿勢があったからこそ、味が保てたのでしょうね」



現役時代の長谷川崇志さん

教育方針は「好きなことを思い切りやれ」



――1973年、大学時代に、朴正熙政権の戒厳令下の韓国を1カ月、一人で旅したとき、向こうで具合が悪くなってひどい目にあったんだけど、「日本に帰ったら第一に、ストレルのケーキを食べるんだ!」と思って、なんとか乗り切りました(笑)。紀子さんは、いつ頃から、この仕事を継ごうと考えたんですか?



紀子「父は、私に店を継げとは言いませんでした。当時はケーキを作るパティシエは男性が主流でしたし、ケーキ作りはかなりの力仕事なので、女性には難しいのでは、という考えもあったんでしょうね。好きなことを思い切りやれ、というのが、父の教育方針でした。

大学は青山学院の英米文学科に進んだんですが、学生運動の盛んな頃で、入学しても授業がなかったりね。その後、結婚し、3人の子供に恵まれましたが、訳あって子供たちを連れて実家に戻ったんです。


そうなると、やっぱりこの店のことが気になりますよね。父も還暦を過ぎて、もう少しマイペースにやりたい、と言いまして。それまで父もたくさんの職人さんを育ててきたのですが、やはり気も遣いますし、慣れたころに皆さん、地元に戻ってしまう。それで、最初は手伝いのようなかたちで始めました。お菓子の基本を学んでおきたくて、1991年に代官山にできたル・コルドン・ブルーの製菓コースの1期生として通ったり。販売や喫茶の仕事のほか、やがて私も父と一緒にケーキ作りを中心にやるようになりました。子育てもしながら、それから30年。あっという間でした」



――お父さまから教わったのはどんなことですか?



紀子「父は、手取り足取り教えることはなくて、『自分の頭で考えろ』というのが口癖でした。自分自身、ほとんど独学で、研究熱心なんです。味に対する父の探求心やセンスはすごいなと、舌を巻いていました。

とにかく究極の照れ屋で、あまり感情を口にすることはないんですけど、でも、私がケーキ作りを始めることになってしばらくして、父が合羽橋に特注して、急速冷凍庫でまとめて作るための業務用の小さめの型を買ってきてくれたこともありました。たとえば、父が使っていたものが80個分入るとしたら、50個分くらいが入るもので、少しでも私が楽になるようにと考えてくれたんでしょうね。


4時、5時起きの父は、毎朝、窯にスイッチを入れて、1万歩くらい、近所をウォーキングしていましたね。その間に窯の温度があがりますから。午前中のうちにほとんど仕事を終えて、午後は本を読んだり、昼寝したりして過ごしていましたね。週に1、2回くらいは、家族においしい料理をつくってくれました。前日に自転車で材料を買い出しに行ってね。

味覚は一生残るものだから、いい味を覚えないとダメだと、孫たちが小さい時からおいしいところに連れていってくれましたね。私も小・中学生の頃は、新しい話題の洋菓子店ができると、一緒に出かけたりしていました」



――今、お父さまはどうしておられますか?



紀子「父は、88歳くらいまで仕事を続けていました。カスタードクリームをつくるとか、パイの生地をつくるとか。仕事が生きがいみたいなものでしたから。いま94歳、私の仕事を見守ってくれています。

でも、親の苦労というか、働いている姿を見るというのは、いいことですよね。私自身も、3人の子供たちにそんな姿を見てもらえたかなと思いながら、頑張ってきました」


崇志さんと常さん


――紀子さんの次の世代は続きそうですか。



紀子「どうでしょうか。子供たちはそれぞれ、家庭や仕事をもっていますし……。私がそうであったように、ずっとストレルの味の『ファン』でいてほしい、とは思いますが、どうしても看板を守ってもらいたい、という気持ちは、正直、あまりありません。それより、のびのびと自分の道を歩んでいってほしいです。


食べた人に喜びや幸せを感じてもらえるケーキ作りは、今は、とてもやりがいのある仕事だと思っています。ただ、お菓子作りは、本当に体力勝負。週休1日で、毎日9~10時間労働、しかも力仕事ですから。30数年、ここまで続けてこられた一番の理由は、やはり私が、父の生み出したストレルの一番のファンで、永久会員でいたいためかもしれません。


子供たちも気遣ってくれ、あまり無理をしすぎないで、と言ってくれるので、今はだいぶ休みも増やして、体力的に少し楽になりました。とにかくずっと木曜日しか休めなかったので……。私自身、ただひたすら真面目に頑張る後ろ姿だけでなく、“幸せオーラ”も感じ取れる背中を、家族全員に見てもらえたらと、最近つくづく思っています」



店内には、思想家の吉本隆明・ばなな父娘の色紙もある。吉本隆明さんの色紙には「対なる幻想、共同の幻想」の文字。吉本さんは、ずっとこの辺を引っ越していた方である。ほかにも、山本益博さんの「わたしの20年来の恋人」はじめ、何枚もの色紙が並ぶ。一番ビンテージものは安藤鶴夫さんの「PARISの味、東京の味、ストレル」ではなかろうか。そうだ、昭和30年代に、これだけ本格派のケーキは売っていなかったのだ。



吉本隆明ら著名人による色紙

かつての「小さくて高い」洋菓子は、スイーツブームのなか、さらに高い値段のケーキが出回るようになり、いつしか「普通サイズで割とリーズナブル」なものとなった。店内で、懐かしのモンブランを味わい、お土産に懐かしのモカロールを持ち帰ってわたしは満足した。


取材・文:森まゆみ

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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/
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