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2020年01月22日更新
牧野兄弟商会オーナー・文蘭さんの「泣いてる場合じゃない」半生ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.20
作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店”にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は牙彫の"根付"やアクセサリー類などを扱う「牧野兄弟商会」へ。(編集部)
日・中・英の3か国語に堪能な女性オーナー
谷中にはその昔、谷中派といわれるくらい牙彫(げちょう。動物の牙、とくに象牙を用いた細工物)の職人が多かったという。
江戸時代、仏師という職業があったが、明治に入ると新政府が神道を保護、優先したため、廃仏毀釈運動が起こり、寺は衰微した。谷中あたりでも無住になったり、廃寺になったりした。
それとともに仏像彫刻を依頼する人はいなくなり、仕方なく仏師たちは象牙に細かい彫刻を施し、根付などを海外に土産物として売ることになった。これを「横浜もの」「スーベニア」と呼ぶ。
私の知っている限りでも、谷中の初音横丁の若菜さん、またその反対側の横丁に植村さんという職人さんがいて、天王寺の七福神のお参りのときには、雑誌「谷根千」と並んで露店を出していた。
牙彫やアクセサリー類を扱う牧野兄弟商会は谷中の三崎坂の上にあり、「谷根千」を始めた時から気になっていた。しかしコンクリート造の建物の威容に気圧され、一度も訪ねることがないままに雑誌は終刊した。今回、勇気を持って訪ねてみる。
女性の従業員が「なんとなく入りにくいでしょ」と、家紋が彫ってある引き戸を開けてくれた。オーナーは牧野文蘭さんという。象牙の話が聞けると思って行ったのだが、その話は全く予想もしなかったもので、別の意味で刺激的だった。
――文蘭さんて、珍しいお名前ですね。
「私は中国人の父と日本人の母の間に1943年に北京で生まれました。母は明治大学に学んだ人で、その頃、同じ大学の中国からの留学生だった父と出会い、結婚しました。父は大学の法科を卒業し、北京に戻ってからは、親の造船会社など、多くの会社を経営していました。母は文化の違う国に行って苦労したと思います。
革命が起こり、1950年に一家で日本に来ました。幼い頃は、北京、上海、香港、日本、また中学1年生の時は台湾の、国立華僑中学の全寮制で1年間過ごしました。満12歳から13歳の時です。そのあたりのことは自分の心の中にとどめて、あまり語りたくないです」
中国の社会主義国樹立の現場に居合わせ、なんと波乱万丈な来し方ではないか。「政治、宗教、肌の色、それは口にしない」と文蘭さんは何度も繰り返した。最初、きつい口調に思えたが、たぶん「あらゆる差別を許さない」ということなのだと、聞いているうちにわかってきた。それなら私と同じだ。ご自身、それで辛い思いをされたのだろう。
「父は私が小学6年生のときに病気で亡くなりました。その後、母はショックから病気がちになり、9人の子供たちを抱えて苦労しました。戦後、母方の家も経済的には大変でしたが、米軍将校の家族に6軒の家作を貸して、その上がりで暮らしていたんです。ボイラーがついていて、すぐお湯の出るような洋風の家ね。私は中学生の頃からその家の管理、たとえば、賃貸の切り替え時に掃除をしたり、毎月自転車で家賃を集金に行ったりして、手伝いをしていました。英語は小さな時から米軍将校とその家族とも接して耳から学んでいたので、あまり苦労はなかったです。
それで21歳でカルフォルニアのビジネスカレッジに行って、卒業の時はエアラインのスチュワーデスをはじめ、4つも5つも会社から引きがありました。英語も日本語も中国語もできたし、タイプライターもできましたから。
これからアメリカで一生懸命生きていく準備が整った、と思いました。ところが、あちらで牧野兄弟商会の長男、牧野紘明と出会ったの。彼の2年にわたるプロポーズに、悩みましたが、彼の優しさを信じて、1967年にハリウッドの小さな教会で結婚式を挙げ、日本に戻りました。日本で結婚式を挙げなかったのは、私の家族も彼の親戚も皆、この結婚に反対していたからです」
女のくせに、ハーフのくせに、という言葉は嫌い
――ところでお仕事のことですが、牧野さん、初代の方はどういう方ですか。
「牧野隆安というのが初代で、私の舅です。私がここに来た時には、もう姑はいませんでした。義父は千葉のお寺の生まれでしたが、象牙店に丁稚に入って独立したと聞きました。昭和8年ごろ、家の前の広い斜めの道ができ、三角の土地が空いたので、前にいた長屋から移ってきたんだそうです。
私が来た頃は、ここは象牙の問屋で、200人ほどの彫刻師が出入りしていました。主に置物、根付、装身具などを創作して、納めに来るわけです。明治生まれの古い彫刻師たちの多くは、お日さまをいただいて仕事場に入り、日が暮れると寝る、というような生活でした。
かなり大変な暮らしの人が多かった。中には先生と呼ばれるような有名なアーティストもいましたけどね。
義父は量産品の工房ものと一作ものとは、はっきりと分けていました。一人の先生が最初から最後まで手がける美しい一作ものというのは、1年にひとつできるかどうかですから。義父は、工房ものを一生懸命売ったお金で、一作ものの作家を助けてあげたりしていました。
当時、仕事を手伝っているときも、義父は「お前が触るのは10年早い」と言って、未熟な私には一切、彫り物を持たせてくれなかった。鎌倉の骨董屋さんにも「こんな小娘とは商売したくない。人間も骨董じゃなきゃいけないんだ。わかったら、台所に行け」なんて言われたり。
自立心が旺盛だったから、頭から押さえられるのは苦しかった。でも、そこで泣いてる場合じゃないよね。義父の仕事をそばでじーっと見ながら、作り方だとか、仕上げはどうするのか、この材はどの先生にあげるかといったことなど、生産と経営の両方を覚えていったんです。
そのうえ、家にも従業員がいました。中には、いきなり中国人が嫁に来た、とよく思わない人もいました。それで、女のくせに、ハーフのくせに、と。母もこの結婚には反対でした。自分も異文化の人と結婚した苦しみを知っているからね。あんたには務まらないんじゃないか、と心配されました。外国育ちで、Yes・No をはっきり言いすぎるところがあるから、まず気をつけなさい、と。お義父さんや夫に失礼のないよう、地味に、縁の下の柱のような嫁になりなさい、とも言っていました。
当時、家にはじいややばあやがいましたから、ばあやから米の研ぎ方、お茶の入れ方、魚の煮方などを教わって。でも舅が、そりゃ考えは普通の明治の男でしたが、本質的には慈悲深い人間的な人で、尊敬できたから、私は耐えることができました。それでも文化的摩擦はありましたよ」
――たとえば、どんなことでしょう。
「〈嫁は終い風呂に入れ〉。これ、意味わからなかった。なんで嫁は風呂が最後なのか。それじゃあ、夜中の3時まで寝ることができない。それで、舅に『私、お風呂に入らなくていいから、シャワーをつけてくれ』と言って、つけてもらいました。トイレも和式だったので、洋式に変えてもらって。夫も義父も優しく、言うことを聞いてくれましたね。そのほかにも〈ただ飯食うな〉〈三年子なきは去れ〉とか、意味のわかんないことばかりでした。中国も儒教の国ですからね。〈親を大事にしなさい〉〈先生を尊敬しなさい〉〈兄弟の面倒は見なさい〉このあたりはわかりますが」
――それを乗り越えられて、強いですね。
「そりゃ傷つきますよ。傷つかない人間はいないよね。でも、負けてる場合じゃない。自分がそこをどう乗り越えるかによって、人生進んでいくと思うしね。
以前、宝塚にいらしたトップスターの方の書いたものを読んだら、日本では中国人と言われるし、中国に行っても、お前は外人だと言われてショックだったと。アイデンティティがなかった、とあって、同じだと思いました。よく「ハーフだけど、あんた、どっちに属しているの?」とか聞かれても、答えはひとつで、「私は私だから、どこにも属していない」と言うしかないよね。
でも平和になってから、中国のかつて住んだ場所も見に行きましたよ。懐かしかった」
及川空観作 小唄のテーマから(勝名のり)
公益財団法人 京都 清宗根付館 所蔵
根付を好きな人はナイーブで、悪い人はいません
――この辺の近所づきあいもなさいましたか。
「やれることはみんなやりました。修理工の子とか、共働きで家に帰っても親がいない子は多かったから、面倒見て、ごはん食べさせたりね。娘や息子の友達もよく来て、それぞれ部屋を持っていたから、みんなそこに集まって、夕方までいました。中にはイギリスに渡った子もいますが、『おばちゃん、元気でいてね』と今もメールや葉書をくれますよ。谷中に帰ってくると、おばさん、と訪ねてきます」
――まだ保育園も育成室も充実していない時代でした。谷中の坂の上は買い物もあまり便利ではないでしょう。
「それでも昔のほうがまだ近所に魚屋、肉屋、八百屋もあったんだけどね。前は自転車で飛ばしていたけど、今は、行きはマラソンで(笑)。根津の赤札堂とか上野広小路まで散歩がてら行って、帰りは食品を抱えてタクシーで帰ってきます」
――その中で、日本の文化を守る仕事を続けてくださってるのですね。
「やっぱり日本人の技術はすごいですから。中国でも象牙の彫刻はありますが、機械彫りが多くて、こんなに繊細なものはありません。日本人ではあまり知られていないけれど、日本の根付は世界中でブームで、高く評価されています。ここにも、外国からもたくさんの取材が来ますし、今も根付関係の美術展や国際的な集まりの同時通訳を、ボランティアでやっています。
私は結婚される前の鳥取久子さんと知り合いになり、あるとき、久子さんが店に青年を連れて見えたのが高円宮様でした。だから妃殿下のほうが根付と出会ったのは早いと思います。根付を好きな人はナイーブで、悪い人はいません」
――今、象牙はワシントン条約で新しい材料は入らなくなりました。
「そうです。私は最初からそれに固執しません。象牙の在庫は、ワシントン条約のときに申請してあるので、売れたら売れた順に申請していきますが、それももうそんなにはないからね。
象牙が規制されて、鹿の角とか、柘植(つげ)とか、マンモスの牙とか、代用品もあるんですが、やっぱり仏像の顔のすべすべした滑らかな感じは象牙じゃないと出ないのよね。今はもう、象牙製品はつくらず、他の天然石のアクセサリーなどに切り替えました。
碁打ちと同じね。負けたら下がる、勝ったら進む。負けてるのに突っ込むと、うまくいかないじゃない?」
針谷祐之作 オリンピックのテーマから(パラリンピック)
公益財団法人 京都 清宗根付館 所蔵
81歳の夫紘明氏は療養中。谷中の会社の切り盛りは文蘭さんが一手に引き受けている。お子さんは後を継がれるんですか、と聞くと、「それぞれ本当にやりたいことをやればいいでしょ」と微笑んだ。
「アメリカに行ってよかったのは、自分で人生を選ぶことのできる自由と、それに伴う責任の重さを学べたことですね。
そして、日本に戻ってきてよかったのは、主人とアメリカで出会って結婚をして、この長閑な谷中の町で、半世紀以上、ともに生活をしてきたこと。日本の習慣も分かるようになりましたし。大好きな谷中の町でこれからも毎日を一生懸命生きて、いつの日か日本の土に還ります」
古いまち谷中で、文蘭さんは自分の考えを曲げずに生きてきた。それはいっそ清々しい。そして土地の頭の古い人々はきっと文蘭さんの迫力に負けてしまったのだろう。
取材・文:森まゆみ
Since 2018ー当連載のアーカイブ
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。
谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→
http://www.yanesen.net/
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