2019年11月27日更新

日本画の大家たちも訪れた画材店「金開堂」。岩絵具の奥ゆかしさに惹かれてー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.18

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に”ずーっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は岩絵具などを商う日本画材店「金開堂」へ。(編集部)

1500色もの岩絵具が並ぶ日本画材店の歴史


根津駅から上野桜木方面へと向かう言問通りの中腹、徳川家光から山号を賜ったという望湖山玉林寺の少し上に、日本画材の金開堂がある。

こちらと、道を隔てて反対側に位置する得応軒も同じく日本画材屋さんで、この二つの店には地域雑誌「谷根千」を早くから置いていただいたし、配達が楽しみだった。というのも、美しい色の岩絵具がずらりと並んでいる店の雰囲気が楽しく、お店の方がいかにも鷹揚で、気高く感じられたからである。



久しぶりにお訪ねすると女主人、杉田桂子さんはちっとも変わらなかった。「森さん、懐かしいですね」と笑顔を見せてくださる。

長年配達していたのに、お店の歴史は知らなかった。

「うちはね、父が店を始めたのが昭和10年と聞いています。父が亡くなった後、母がちょっとやっていて、その次が私で。今は息子が跡を継いで、息子で4代目になります。

父は植田堅治といって、関西の有馬温泉のあたりの生まれなのですが、家が貧しく、たまたま奉公に行ったのが、京都の六角通りにある老舗の筆屋さんでした。宮脇賣扇庵という有名なお店の並びにあったそうです。

その奉公先のおばあさまがしつけに厳しい方だったそうで、父が足をちょっとでも崩したりすると、物差しのようなものでバチーンと叩かれたんですって。

ですから私が物心ついた頃、店は座売りでしたが、父が足を崩すのを見たことがありません。きちんと正座して、お客さまとお話ししていました。その奉公先では食事も粗末で、朝は、凍ったご飯にお湯を注いでかきこんでいたとか。  

当時は日本画家だけでなく、たとえば、京都の南座の役者さん方も絵を描かれたり、と筆に親しんでいらしたんですね。顔をつくったりするのにも筆が必要で、父も楽屋まで筆を納めに行っていたそうです。

そうしたら、(五代目 中村)歌右衛門さんから『可愛い小僧さんだね』と頭を撫でられたとか。そんなことを、たまにぽろっぽろっと話してくれましたね。

そんなふうに京都のお店で修行をしながら、筆のこと、絵具のことを覚えて、二十歳過ぎてから暖簾分けをしてもらって東京に来たんです。最初は根津の仕舞屋(※しもたや。商売をしていない家のこと)に住んで、画材を担ぎで売り歩いていたとか。

その後、2、3年ぐらいたってから、藝大に近いほうがいいのではと、この並びに店を出したようです。私が幼な心に覚えているのは、有名な日本画家の結城素明(ゆうきそめい)さんとか、よく店においででした。

金開堂という名前は、父の言によると、上京するときに、京都のお寺のお坊さまがお祝いに額を書いてくださったと。それを風呂敷に包んで抱えて出てきたそうです」



――ちっともお変わりありませんが、何年のお生まれですか。

「私は昭和15年です。商売は継ぎたくなくて、勤め人と結婚したんですが、私一人しか子供がなかったもので。本当は上に男の子と女の子がいたんですが、小さい時にふたりとも疫痢で亡くなった。

可愛い盛りでしたので、母は亡くなる最後の最後までずっと、心の底に亡くしたふたりの子供のことがあったように思います。私はその兄や姉と歳が離れてできた末っ子で。私の姉の名前を、生まれ代わりだと言って付けたようです。

母は新潟生まれなんですよね。昔風の女性だったと思います。家事もして、店も手伝って」

――この辺はやはり芸大があり、日本美術院があり、それで美術関係の材料屋さんも多かったんじゃないですか?

「前側の得応軒さんは、うちよりずっと古い老舗です。先代の盛雄さんはなんでもご存じで、いろいろ教えてくださいました。本当に立派な方で、尊敬していました。

以前、画材の組合の会で、盛雄さんのお話をうかがうチャンスがあって。すごく詳しく覚えていらっしゃいましたね。このあたりにどういうお店があったか、もともとは絵の具や筆というより絵を描くための絹屋さんが多かったとか、このあたりのこと、商売の歴史や変遷などをお話ししてくださったり。

筆では、動物園の裏門の前あたりに晩成軒を号とする金田さんという絵の筆の名人がいらして、奥村土牛先生とか、横山大観先生の筆を作っておられました。

子どもの頃、そこを通ると、その方が端座して論語とか読んでおられるんです。まるで映画のワンシーンを見るようでした。もとは旗本という御家柄で、維新後、禄を失って、得応軒さんにいらした有名な筆の職人さんのところに弟子入りして、そこで修行をしたという方で。本当の当時の教養人でしたね。ここにその方の作った筆があります」

と奥から素晴らしい筆を出してこられる。晩成軒江南作、80歳とある。



「さまざまな毛を割合で混ぜて作るわけですが、描かれる先生方からも『こんなふうに』『こういう感じに』といろいろと注文が多くて、大変なようでしたよ。

岩絵具は、得応軒さんの上のほうに、飯坂作助さんという、天然の岩絵具を作る職人さんがいらっしゃいましたよ。藝大の先生方の注文を受けて、天然の緑青とか、群青とか、いろんな色の絵具をつくって納めていらして。もう亡くなられてしまいましたが。

日本画の先生方は有名になって、文化勲章とかをもらったりして脚光を浴びるけれど、私たちみたいな職人は下積みだなあと。こういう職人には光が当たらないなあ、なんて、おっしゃることもありましたね」

――この辺にいらした画家はどなたですか。

「谷中清水町に望月春江さん、岩田正巳さんがおられました。千駄木には巨匠の児玉希望先生。たくさん内弟子さんがいて、雑巾掛けからやっていましたよ。地方から出展なさる方には、谷中のお寺をご紹介して、その広いお座敷に作品を持ちこんで、最後の仕上げをしてから、都の美術館に搬入する……なんて時期もありました。

そのほか、印象に残る先生方では、松林桂月さん、金島桂華さん、山口蓬春さんとか。

それから、小松均さんという京都の先生でしたけど、大きなリュックを背負って、たとえば、列車を乗り継いで山形の最上川のあたりまで出かけて本画まで仕上げてきて、帰りに上野駅からリュックを背負ったまま、必ず立寄ってくださっていました。ご自分のイメージが湧いたんでしょうね。この色と、この色と、この色を送ってくださいとおっしゃって。そういうのは覚えていますね。

今は、お店に来られるのは場所柄、藝大の学生さんが多いです。あとは、メールや電話などで注文を受けて、発送しています」

商売は、最初は嫌いだったんですけど、その奥深さから離れられなくなりました


――ガラスの瓶に入って並んでいて、本当にきれいで見とれてしまいますね。いったい何種類くらいあるんでしょう?

「1500色ほどありますかしら。絵具の色数は圧倒的に増えましたね。昔はこんなにはなかったんですけど。

岩絵具というのはもともと、天然に産するミネラル、鉱石をくだいて絵具にしていた、という歴史があるんですね。これらの鉱石が、日本の銅山や銀山から採れた時期もあったんです。

たとえば、あそこにある「松葉緑青」というのは、天然のマラカイトという鉱石からつくったもの。それから、上のほうにある群青の青い色、あれは、アズライトからつくった絵具です。



――使うときには、水で溶いて?

「お水だけではとれてしまいますから、接着剤にあたる「にかわ液」というものを入れないとダメなんです。岩絵具をにかわ液で溶いて、よく混ぜこんで、それを水で薄めて、筆で描くわけです」

――こうした絵具はどこから仕入れておられるんですか。

「京都の宇治に岩絵具の大きなメーカーがあって、天然のものは、そこがインドやアフリカ、南米など、世界各地から鉱石を仕入れてつくっています」

――「鶸色(ひわいろ)」に「珊瑚(さんご)」「紅樺(べにかば)」……きれいな名前ですねえ。同じ名前の色であっても10段階くらいの濃淡があるんですね。こういう微妙な色合いの違いというのは、どうやって生まれるんですか。

「岩絵具を製造する過程で、非常に手のこんだことをするんです。鉱石をくだいて、機械の力で最終的にものすごく細かくしていきます。それを今度は、大きな水瓶のなかにぽーんと入れる。そうすると、中の粒子が沈殿していくわけですが、時間が早く沈殿するものは重い、ということになりますね。

そのようにして、水の力と時間によって粒子が分別され、岩絵具がつくられていくので、こうしたグラデーションになるわけです。

濃淡だったら、混ぜて中間色をつくってもいいんじゃないか、と思いますよね。でも、岩絵具は混ざらないんです。粒子の違いで重いものは先に沈んでしまうので、水に入れると、分かれてしまう。油絵や水彩の絵具のように、これとこれを混ぜたらこの色、ということにはならないんです。そういう特徴があるんですね。

ですから、お客さまは、自分がここに使いたいのはどの色か、というのを特定して、買っていかれる。あるいは、絵具は混ざらないんですけど、下にこの色を塗って、その上からこういう色をかけると、こういう色合いになる、こういう効果になる、ということを経験上学んでいらっしゃって、これだけの色数のなかから選ばれるわけです」

――絵具を選ぶときから、もう絵づくりが始まっているわけですね。これを買うときはどういうふうに?

「ここにね、古いタイプの秤がありますから、瓶ごとこちらへ持ってきていただいて。最小単位が15グラム。1両目と、私どもの業界では呼んでいるんですけれど、1両目、15グラムという単位でお売りしています。



――アズライトを使った群青色は……15グラムで3400円! わあ、大作で、川なんかこの色で描こうと思ったら、どのくらいいるんでしょう。

「ねえ、大変ですよね。群青のアズライトもすごく希少な石なんですが、ラピスラズリを原料とする青はもっと高くて、5グラムで3900円します。中には水銀が原料の辰砂(しんしゃ)や、火がつくとパッと燃えるものもあるので、扱いには注意が必要ですね」



――色数が増えた背景には、色の流行り廃りなどもあるんですか。

「もともとは天然の鉱石でつくるだけでしたから、色数も限られていて、たとえば、群青とか、緑青とか、朱とか。そのあと、新しい鉱石などが海外から入手できるようになり、また、人工でつくる技術も発達して、限りなく色ができるようになってきました。

大きな作品を、大きな会場で飾るという風潮もあって、大きな絵を描くということになれば、やっぱり絵具の種類も必要になりますから。そうした世の中のニーズに応えて色数が増えていった、という面もあると思います」

――岩絵具でないものもあります?

「土系のものや、金属製のメタルを粉にしたものもありますし。それから、あそこに棚にある「藤黄」からは、黄色のきれいな色が出ます。東南アジアのゴムの樹みたいに、枝に切り傷をつけて、たらりたらりと樹脂が落ちてくるのを拾って固めたもので、それこそ、平安時代くらいからあったようです。

あちらにあるのは、絹を染める丁子とか皀(サイカチ)ですね。サイカチは洗剤にも使われて、ぶくぶく泡が出ます」

――丁子は香辛料のクローブのことですが、なかなか日本では売っていませんね。これ、虫除けにもなって重宝なんですよ。油とウォッカに浸して、シュッシュッとやっておくと、蚊が寄ってこなくなって。日本画にも使うんですね。

「これで和紙に古色をつけます。洋画の方も油絵具でなくアクリル絵具を使う方が増えていますが、日本画でも、アクリルを使う方も多いですよ。となると、何をもって『日本画』というのか、という意義が問われる、といったことは、出始めていますね」



そこに若い女性たちがお店に来て、画材をカゴに入れている。4代目の息子の浩史さんが応対する。以前、配達に来るといらした旦那さまは?

「主人は会社勤めで、時々店を手伝ってくれていたのです。今は退職して、日本画材についてのパンフレットを作ってくれたりしています」

「「土佐派家伝書」に見る彩色顔料1000年の洗練」「丹青のこと」など、興味深いタイトル。一冊200円。



古くは古墳時代、九州地方の壁画に、土を用いた彩色がなされていたこと。

7世紀の高松塚古墳の壁画では、おそらく中国からもたらされた孔雀石などの鉱石を用いた絵具が使われていること。

秀吉時代の豪華絢爛な文化は、秀吉の管轄地の多田銀山から採掘された鉱石に支えられていたことなど、桂子さんは岩絵具にまつわる歴史も丁寧に説明してくださった。

最初はお店を継ぎたくなかったという桂子さんだが。

「商売は、最初は嫌いだったんですけど、でも、入っていけばいくほど、地味でも、いろんなことに出合ったり、歴史を知ったり、さまざまなことに触れるうちに、その奥深さから離れられなくなったというか。

おそらく人を使っていたりしたら、経済的にも大変で、あくせくしなきゃならなかったと思うんです。でも、幸いにというのか、最終的には家族でまとまって、こじんまりと商売をするというかたちになりましたから、自分で考えたり、集中して調べたりしていくうちに、さらに面白いと思うようになりました。絵具の色なども本当に深くて、遠い歴史と関わっていることがわかるようになってきて、商売の面白さも見つけられたような気がします」

取材・文:森まゆみ


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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。


谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/


連載もの: 2019年11月27日更新

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