2019年04月03日更新

5代続く骨董店「大久保美術」の心やさしい、ゆとりのある家族経営ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.7

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は5代続く骨董店「大久保美術」さんにお話うかがいました。(編集部)

谷中界隈は骨董屋さんも多い風雅の里


上野桜木から谷中にかけては骨董屋さんが多い。もともと藝大が近く、そうした美術品や器に興味がある人が多いこともあろう。森鴎外の「青年」は明治43(1910)年の作品だが、ここにも暮れの一日、谷中の骨董屋を冷やかして歩く一節がある。日暮里の駅前では、田村松魚が妻の田村俊子と骨董屋をやっていた。

大久保美術は明治から5代続く骨董店で、茶道具につよい。
4代目、大久保満さんの話。

「元々は三河の大久保家、と言ってもいろいろあるらしいんですよ。徳川の譜代で、江戸に水道を引いた大久保主水もその一族ですね。一族で宗教戦争をした。うちの大久保はそれで負けて三河から新潟に行ったようなんです。お墓は浄土真宗の西徳寺。その本堂の真裏、ご本尊の後ろにあるってのがちょっと自慢なんですがね。中村勘三郎さんのお家の墓も同じお寺です」



――骨董屋さんの初代はなんという方でしょう。

「大久保嘉平治だと思います。それが私の曽祖父です。もともと日本橋あたりでやっていて、初代は長崎経由で入ってくる清のヒスイなんかを扱っていたらしい」

――そういえば日本橋には長崎のオランダ人が泊まる長崎屋という旅館も江戸時代にありましたね。長崎は唐人貿易もしてましたね。なるほど、ヒスイか。

「それから風雅の人が多そうな等々力渓谷に越し、さらに根岸に来た。谷中にいつ来たのかはわかりません。大正2(1913)年にここの新築の長屋を買ったという書付はあります」

――根岸も風雅の里で骨董や茶道具を好きな人が多そうですが、高村光太郎の父・光雲も、下谷の空気がよくないので、高台の空気のきれいな谷中の、ついこの先に越しています。そういうことかもしれませんね。

「その次、2代目は春之助と言いまして、その人はあまり長生きしませんでした。その妻がまさと言って、埼玉の騎西町から来たんですが、これも元々、大久保家があの辺りに領地を持っており、その因縁らしいです。

3代目はうちの父で、平吉といって大正14(1925)年生まれです。これについては母のほうが詳しいと思います。母を連れてまいりましょう」



銀行で通帳を見せられて。あれがプロポーズだったのかな?


お母様、幸子(ゆきこ)さんの話が面白かった。

「私は、上根岸の根岸小学校のそばにあった、鉄舟庵という蕎麦屋の娘なんです。昭和6(1931)年の生まれで、戦後、女子美を出まして、高校・中学の先生を一時していました。鉄舟庵は山岡鉄舟先生が贔屓で来られて、お蕎麦を何枚も食べられたという有名な店で、料亭みたいなこともしておりました。中庭で盆踊りができるくらい広かったし。入り口には柳が垂れさがっているような。父も母もお坊ちゃんお嬢さんでのんびりしてまして、一応、私も調理師免許もとって店を継ぐ用意はしていたんですが。

でも、私は嫁ぐなら苦労した気概のある人のところがいい、と思って、店の手伝いをしながら、密かに客を観察をしておりました。そこでこれと見込んだのが主人となった平吉なんです。7人兄弟の末っ子の五男でしたが、兄たちが満州のNHKに入ったりと外に出たもので、骨董店を継いでから自分でとにかく京都や奈良にも出かけて猛烈に勉強をしまして、なんでもよく知っておりました。あ、この人だ、と思って。

向こうもそう思ったのかもしれません。銀行でバッタリ会った時に『あの、骨董屋さんって知らないでしょう? 僕はこうやって、ちゃんと月々預けて、真面目にやっています。僕の通帳を見てください』と言うんですよ。そんな人います? 正直な人だなと思いまして、今思えばあれがプロポーズだったのかな。本当に主人を尊敬しておりましたし、なんでも優しく教えてくれる人でした」と幸子さん。その名の通り、本当にお幸せな結婚生活だったようなのだ。



――そうすると、戦後30年代くらいからここでやっておられたわけですね。

「はい。その頃はなぜか仏像のブームで、仏様が人気がありまして、それを仕入れましてね。もともと私は、お茶、お香、お花、お習字、懐石など、細かいことを勉強するのが好きだったんですが、仏像は勉強してこなかったので、まあできなくて、1年泣いたんですよ。

そうしたら、主人がね、『一緒に仕入れに行って勉強すれば大丈夫だよ』と言ってくれて。それこそ、当時は宅急便もありませんから、九州だ、北海道だとあらゆるところへ大きな袋を持って、仕入れに行ったものです。それが、勉強になってよかったんですね。今でも、今日はこれを勉強しようと決めたら夜遅くまでやっています。そうすると、頭に入って、お客様にも『これはこういうものです』とお話しできますから。信頼を受けないと、この商売は絶対できないです。

主人はお客様とお話しするのが好きで、お買いにならない方とでも、『まあお上りなさい』とお茶を出して、お話ししているうちに鎌倉や世田谷からもお客様がお見えになって、何か買っていただけるようになります。その頃、美校(東京藝大)の方も古美術に興味を持ってよくお見えでしたが、今の方達はあまり見えません。古いものを見ると自分の個性が消されちゃうというように思うのでしょうか」



そしてお店は父から娘へと継がれていく


息子の満さんは4代目。

「僕は大学を出て旧大倉財閥本社の大倉事業に勤め、平成不況で信託銀行に移り、長年会社員でした。父が79歳で亡くなってから早期退職して後を継いだので、本当は母が4代目なんです」

「ええ、そうなんですの。主人がなくなりましてから、8年くらいはひとりでやっておりました。『あれ、奥さんてお話されるんですか』とお客様に何度言われたか。主人がやっているときは、出しゃばらず秘書役に徹していましたから」

――お店を継ぐために、そんな大きな会社を辞められたんですね。

「父も亡くなったし、退職してこの仕事を継ぐことに決めました。その時に、もう父の代に仕入れたものがいっぱいあるので、もう仕入れはしなくていい。その頃、谷中にはインバウンドというんですか、外国人の方がたくさんいらっしゃる。それでここを建て替えるときに、1階は母の縄張りで香道のお教室。上は喫茶で、気軽に靴のまま二階に上がっていただき、椅子席の立礼(りゅうれい)のお茶室にして、父の集めたお茶碗で、抹茶を召し上がっていただこうと。正座をしたときの目線で見られますでしょう?」

――月替わりで、時代物の彫唐津から、大樋焼(加賀・前田侯のお庭焼)に黒薩摩、三浦乾也の作など、垂涎のお茶碗から好きなものが選べて、お菓子付き1000円だなんて。ちょっと怖いですね。お茶碗が割れたりはしませんか?

「それが一度もありません。外国のお客様の方がむしろ礼儀も心得、道具の扱いも慎重です。壊しそうな扱いをされる方には英語でもすぐにお教えします。私は絵も描きますので、お使いになった茶碗の絵を描き、説明も英語で書いた紙をプレゼントして喜ばれます。なんといっても、いろんな国の方と交流するのがこちらも楽しいし、あちらも喜んでくださいますので」

--それは大サービスですね。

「本当に意義がある仕事だと思います。週に4回は下谷の茶道の安藤美幸先生に来ていただいて。今日もお見えですが、うちの看板娘です」



5代目はお嬢さんの敦子さん。慶應の経済を卒業して企業勤めをしたのちに、家を継ぐ気持ちを固めた。小さな頃から茶道や香道も学んでいる。

「跡を継ぐところにいたるまでは、紆余曲折ありまして。卒業後は不動産会社で事務をしていたんですけど、このままでいいのか疑問が湧いてきたんです。それで、日本の伝統工芸やものづくり、産地を応援する事業を展開している会社に転職しました。そこで3年間、茶道具に限らず、全国の民芸品や地域産品に携わらせていただいたことが、いまの知識の基盤になっています。

そこは作り手さんと対話しながら一緒に考えていけるやりがいのある仕事でした。ただ、あまりに忙しくて体調を崩してしまったりもして。ちょうどその頃、お店が新しくなり、父が「ギャラリー大久保」という新しい形を考えてくれたということもあって、気持ちが動いたんですね。私も両親の支えがないとここまで来れなかったわけですから、自分が大切にしたいものを優先しようと。

せっかくできたお店ですから、これからまた100年続くお店にしたいと思ったんです。祖父がやっていた頃のような茶道具の骨董屋で続けていくのは厳しいですが、新しい試みで骨董の敷居を下げることができると思っています。

例えば『Airbnb』や『TABICA』のようなサービスを使って、お抹茶や香道とともに気軽に骨董を楽しめる体験を提供していたり。靴も脱がずにお椅子でリラックスして、けれど本物の美術品に触れられる場所が谷中にありますよ、ということを伝えていけたらいいですね」

2階のギャラリー大久保では、和菓子と抹茶をいただいた後、続く洋室で、ランチもできる。こちらはお母さんの真知子さんの担当。「キーマカレーとキッシュの二つ、家庭料理です」と控えめだが、大変美味しかった。谷中らしい、心やさしい、ゆとりのある家族経営だ。



取材・文:森まゆみ

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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
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Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/

連載もの: 2019年04月03日更新

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