2018年07月09日更新

僕は本気になるときに本気になれない人間だったのだーネルソン水嶋の仕事珍遊記vol.2

現在はバンコクに拠点をおいて活動する編集者・ライターのネルソン水嶋さんによる、これまでの仕事振り返り。中編では"こじらせクリエイター"だった水嶋さんが、ベトナムで本当にやりたいことに覚醒していくプロセスが描かれます (編集部)

前編はコチラ→海外旅行でベトナム行ったらそのまま働くことになった

人生で一番みっともなかった頃


兄から『電通クリエーティブ塾』という学校を聞かされた。

広告業界最大手に君臨しつづける電通、その新進気鋭の広告クリエイターたちが学生に向けて、クリエイティブ論を教えたり課題を出す三ヶ月間のワークショップ。兄の友人はそこに通っており、課題で自作ラジオCMを聴かせ合ったという話が、素直に、とても楽しそうでおもしろそうだと思った。

ゲームに興味を失いかけていた高校三年の頃、たまたまテレビでCMプランナー、つまり広告クリエイターとも呼ばれる仕事を知って興味を惹かれたことのあった僕は、「もし今からでもなれるならなりたい」と思った。しかも塾の成績優秀者は電通に入社できると公然とされる噂。

新たな夢と道程を得た僕は、そこではじめて夢は現実の延長線上にあると知った。振り返ると僕の夢は、ゲームだろうが広告だろうが、人を楽しませられるコンテンツをつくることだったのだろう。

しかし、思いだけで距離は縮まらない上に、10倍近い倍率の難関入塾試験もある。僕は企画のつくり方もアイデアの生み方も知らない。そこで学生にしては(いや社会人でも?)高額だったが、16万円を用意して、宣伝会議という広告業界誌が主催するコピーライター養成講座に通った。

半世紀以上と歴史は長く、糸井重里や阿久悠、中島らもなど輩出した学校。そこで企画に批評を受ける辛さや喜び、それから今でも付き合いのある友人たちとの出会いを得て、二年後――。電通クリエーティブ塾の試験を受け、合格。人生ではじめて努力が報われた。

来たいなら来たらいいよ、なんとなく頭に浮かぶクリエイティブの神様に、そう言ってもらえた気がした。

これは余談だが、自分の呼び名が「ネルソン」になったのはこの頃だ(由来は後述する)。3ヶ月間のプログラム終了と同時に就職活動は本格化。この時点で僕は、これまで見てきた壇上に上がるクリエイターたちの燦然と輝く姿を通して、広告クリエイターになる将来しか見ていなかった。いつかは自分もあの壇上に立つのだろう、となぜか当たり前のように思っていた。

が、しかし。クリエイティブは僕などより努力する人間やスマートかつ変態的なアイデアを繰り出す人間がいて、就職活動は僕などより明朗に自分をPRできる人間が山ほどにいた。努力の総量も足らなければ、自分をうまく見せる要領の良さも足らない僕は、弱かった。

そして何より、これまで口に出したことすらないのだが…当の電通には、エントリーシートすら出さなかった。そうです、アホなんです。「きっと打てばホームランで拍手喝采やろなぁ」と思いながらいつまでもベンチに座りつづけ、この試合だというとき打席に立たせてくれと監督に言い出せない。

ようは本気になるべきときに本気になれない人間だったのだ。

そのままズルズルと就職活動を続ける僕に親は我慢の限界を超え、(情けないことに)受験のための上京費用なども出してもらっていた僕は折れ、大学の就職課に泣きついた。

すべては自分の責任、人生で一番みっともない頃だったと思う。不幸中の幸いで(と言うと失礼だけど)、大学の就職支援のケアは手厚く求人もあったので、業界においては中堅ながらも東証一部上場のIT企業に就職した。それが冒頭(前編)で登場した6年目に辞めた会社だ。

ここまで読んで、人は僕のことを他力本願な奴だと思うんじゃないだろうか?

僕はすごくそう思う。「クリエイターになりたいぞ!」と言いながら、どこかの組織の手によって「クリエイターにしてもらおう」としていたのだ。

そのくせ、肝心なところで行動しない。本当になりたいのなら、泥水をすすって這いつくばっても、みっともなくても手足を必死に動かして、今すぐ自分で創作や活動をはじめればよかった。

クリエイティブの気配を辿って海まで超えて、ベトナムに行き着いて、ようやく「そんな都合のいい働き方はない」んだと気づいた。

そしてはじめたものが、『べとまる』というウェブサイトだった。

ベトナムの町を走る「全身白づくめのバイクタクシー」

僕はお笑いが大好きなのだ


なぜウェブサイトを? と聞かれるといくつか理由はある。「ベトナムを紹介する日本語レポートサイト(ブログ)がなかった」…「ベトナムの発展が日本でも徐々に話題になりつつあった」…しかし、何より最大の理由は、単純に「おもしろいことを書きたい」という欲求からだった。

僕は、高校三年から大学二年までメールマガジンを配信していたことがある。ゲームプランナーや広告クリエイターへの憧れとは関係ないところで、当時のメル友に影響を受けてはじめた。

内容は簡単に言えばコント風日記で、多いときは読者が400人ほど。隣で寝ている兄を起こさないように布団にくるまって携帯をカチコチカチコチ、「よし、今回は10個くらいボケてるな」とか、「感想が多いから今回はウケたのかな」とか、極々小規模ながらもあのとき自分は「お笑いをやっていた」と思ってる。たぶん、世の中的には、ハガキ職人みたいな方向性に近い。

ネルソンの由来は、この中で登場するキャラクターだ。屈強な黒人だけど、弱腰の泣き虫で、追い詰められたら七色に光ったり空を飛んだりと、荒唐無稽な設定を詰め込んでいた。そのキャラが人気だったので、メールマガジンを終えたあとに形に残そうと思い、ウェブで使うハンドルネームとして名乗ることにしたのだ。

メールマガジンの後半は、『侍魂』や『ろじっくぱらだいす』といったテキストサイト(と呼ばれるジャンル)を知って、文章だけで笑いをとれる人たちに憧れ、その世界にのめり込んだ。この時代に活躍した人たちが今では、本稿でも後に登場する『デイリーポータルZ』の編集長や、『オモコロ』の初期メンバーとして、現在のウェブコンテンツの系譜をつくるに至っている(今では一応関係者である僕が言うのもなんだけども)。

社会人になってからは、Twitter上で大喜利の出題と回答者へのつっこみをはじめたりして、ニュースサイトに取り上げられる程度に注目された。大喜利を中心にさまざまな取り組みに挑戦していた。

つまり、僕はお笑いが大好きなのだ。

そんな日本人にとって、ベトナムという国はネタの宝庫。「ファミリーステーション」というパチもんゲーム機が売っていたり、動物園では檻の前にシートを敷いて家族が弁当を食べたりしている国だ。



「笑えるベトナム記事を書いてみたい」という欲求が生まれることは極々自然ななりゆきだったと思う。

異国の地でプロの書き手として"デビュー"を果たす


幸いにも、『べとまる』の船出は思いのほか順調だった。

世の中うまく出来ているもので、コピーライター養成講座や電通クリエーティブ塾、Twitterでの大喜利、そしてエンジニア、すべての経験がひとつのコンテンツをつくる要素として噛み合って、友人を中心に反響は大きくなっていった。

企画面でも、当初は「家にベトナムで珍しい畳を入れた」「大きい公園で鬼ごっこした」などの身の回りのことからはじまり、「クチトンネル(戦跡)に行ってみた」といった観光レポートに挑戦、「全身白づくめのバイクタクシーに白い理由を聞く」「日本人駐在員と現地採用者の意識差を調べる」といったインタビュー記事に発展…と、「ブログの撮影」感覚はやがて「メディアの取材」感覚に育っていった。

おもしろいもので、在住者は現地の情報を調べるうちに『べとまる』に行き着くらしい。

自然と顔と名前が広まっていき、外で握手を求められることも増え、ありがたくもベトナムの有名人とも呼ばれる機会が増えていった(あくまで日本人コミュニティの、だけど)。人見知りなので、ほとんど「思ったより真面目なんですね」「思ったより静かなんですね」と言われたけど、それはそれで愉快なことのように思えた。

はじまってから三ヶ月ほどでニュースサイトにも紹介され(タイトルは「無収入ブロガーのおもしろ海外生活」!)、さらに三ヶ月後、つまりスタートして半年後にはライブドアブログのコンテストで入選。賞金は「奨学金」と言いながら返金不要、一ヶ月ずつ5万円が半年間に渡って振り込まれるというもので、「自分が書いた記事がお金になるのか!」と喜んだ。

それから、「ベトナムでダチョウに乗る」「マクドナルド一号店にドナルドのコスプレをして行く」「スイティエンパークのレポート」などといった企画がウケ、ハノイの日本人向けトークイベントに招待されたり、ホーチミン市在住、ベトナム在住日本人の間で順調に知られていった。

当初は日本に住む日本人に向けて書いていたが、在住者、なにより日本語の読めるベトナム人にも反応があったことには意外であるとともにうれしかった。

おもしろいことをやりたいと思ってはじめたサイトだったが、そんな自分がまさか「日本人の視点が新鮮だ」「ベトナムを紹介してくれてありがとう」などと言って喜んでもらえると思わず、それをきっかけに段々とベトナムが好きになっていった。また、通訳などの手伝いを通してベトナム人の友人たちもずいぶんと増えた。

しかし、奨学金は別として、ブログそのものが収入になることはまずなかった。

隠すことでもないので公開するが、ベトナムに渡った時点での貯金額は200万円。それを切り崩しつつ、やりたいことを思い切りやる。エンジニアという職歴と、当時オフショアブームでたくさんの日系企業が進出してきたことも手伝って、ありがたくも社員としてのお誘いを何度か受けたが、もはや引き受けるつもりはない。やりたいことをやるために、すべてを振り切ってここに来たのだ。

と、いっちょ前にカッコつけてはみたが、「どうせすぐに使えないヤツだとバレるだろう」と思っていたというのが本音のところだ。

いずれにせよ、記事を書き続けることで良くも悪くも「それ以外に興味がない人」だと思われるようになったのか、そんなお誘いも段々となくなった。たぶん、在住歴が長くなるにつれて、元エンジニアという経歴が忘れられていったということもあるのだろう。

サイトを更新するほか、自分が呼ばれたハノイのトークイベントに触発されてホーチミンでも同じようなイベントを運営したり、また友人と話が盛り上がった末に街コンを開催したりした。

日本でやったイベントらしいイベントは大喜利関係くらいだったが(それも主な進行役は友人で自分は裏方だったのだけど)、ベトナムでのイベントも成功といえるほどには人を集めることはでき、記事以外の活動でも気持ちは充足していった。

ダチョウから転げ落ちた決定的瞬間

日本人コミュニティの「光」と「影」と「人間不信」


やりたいことをやりきる満足感、
取材を通して高まるベトナム愛、
反響を受けての自己肯定、
あまりにその輝きが強く、目減りする貯金はしばらく見えなかった、見ないようにしていた。

それはのちに大きな壁となって立ちはだかるのだが、その前に、ある意味ではもっと巨大な別の壁が激しくぶつかってくることになる。

僕は6年3ヶ月のベトナム生活はおおむね楽しかったと思っているが、人生で後にも先にもあのときほどはないと思うほど悲しいことが次々起きた。今から書くことは愚痴だが、最初にごめんなさいと言いつつ書かせてもらう 。

断っておくが、海外の日本人コミュニティはおもしろいものだと思っている。

規模にもよるが、それはまるで日本の縮図。ホーチミンには1~2万人の日本人が暮らすと言われているが、立場も、会社員・経営者・その家族とさまざま。業界も、IT・旅行・広告・法律…数えきれないほどさまざま。しかも同じ国を選んだ日本人ということもあって気も合うので、日本よりも確実に異なる属性を持った人たちと触れ合えて刺激を与え合える良さがある。

だからこそ、一方で衝突も起こりやすい。あえて日本人を避けてベトナム人や外国人と付き合う人もいるが、多くの日本人は日系企業で働いており、完全回避は望めない。とりわけ顔の広い営業職なら、休日まで客や上司と会いたくないので、日本人街であるレタントン通りには近づかないという人もいる。

そういった距離の近さを背景とした息苦しさによって何が生まれるかというと、ウェブやリアルも関係なしに飛び交う噂や陰口。誰かが別れた・付き合った、誰かが殴った・殴られた、個人間の些細ないさかいが、伝言ゲームによって尾ひれはひれがくっついて広まってしまう。

そこで対象となるのは「目立つヤツ」。名前も顔も出して、ダチョウに乗ったりドナルドになったりしている僕は、噂で暇をつぶしたい人たちの格好の餌食になっていた…らしい。

なぜそんな書き方かというと、僕自身は見ざる聞かざるを徹底しても、周りの友人が、「あんなこと言ってたよ」「こんなこと書かれてたよ」と教えてくれてしまうからだ。

もちろん悪気がないことは分かっている。しかし、伝え聞く声の向こうには、ネガティブで真っ赤な嘘が平然と広がり、しかもそれを信じている人たちもいたりなんかして、本当にうんざりした。

「人に言われるから」という理由で、実際に僕から距離を置く人もいた。 この頃は、誰が敵で誰が味方が分からなくなった。いわゆる人間不信だ。

日本人社会は狭いので、もしかしたら知らず知らずのうちに僕も誰かに憎まれることをしているのかもしれない。だったら大変申し訳ないと思う。

不幸中の幸いというか、一応いいこともあって、窮地で本当に応援してくれる人たちが浮き彫りになったと思う。

自分の背中を押してくれた人たちの恩には報いたいし、一方で後ろ指を差したり蹴飛ばしてきた人たちは見返してやりたいと考え、それらのどちらの感触もシッカリと記憶に留め、今でもモチベーションの糧にさせてもらっている。

受賞と、クリエイターとしての一歩目


サイトを通じて酸いも甘いも経験しながらも、相変わらず貯金は減る一方だったが、ここで転機が訪れた。

ライブドアブログ奨学金のコンテスト以来、自分の記事が連続してふたつの大賞を受賞したのだ。それは今でもライターとして参加している『デイリーポータルZ』の新人賞、もうひとつはYahoo!スマホガイドの『スマホの川流れ』というコーナーだった(後に『ネタりか』に統合)。

連続! 大賞! 血管がはちきれんばかりに興奮し、飛び上がるほど喜んだ!

前述の通り、時期が時期なだけにけっこう身銭を切ったが、DPZの授賞式に参加するべく一時帰国。ライブドアブログの賞ではウェブのみでの発表だったので実感はなかったが、目黒の高級式場を貸し切っての式で受ける祝福(DPZ的にも珍しい試みだったらしい)、あれは今でも「いま死んでもいい瞬間」ランキングの暫定一位だ。とか言って、3年半経って「今でも」ってのもどうかと思ったけど。ともかく、それからぽつりぽつりとライターの仕事をはじめることになった。

僕は前述のテキストサイト直撃世代でもあったので、そのレジェンドや系譜の人たちへの敬意の思いは強かった、それだけにそんな人たちに褒めてもらえたことはたちまち自信につながった。

でも、そこから先は同じ媒体でハッキリと数字が出る世界、海外(ベトナム)ということが強みになったり弱みになったり、いろいろと苦悩することにはなるのだが…。

いずれにせよ、こうして僕は、就職や転職や、社内事業などではない、いろんな人たちに支えられながらも、30歳になってようやく夢が叶った、クリエイターとして一歩目を踏んだと思った。

余談だが、このブログのトップ画像にも据えている『ドリアンマン』はそれから間もなくあとの話だ。ドリアンを装備したら強そうに見えるかもと思ってやったら、地元の若者向けメディアで取り上げられ、それが日系メディアに取り上げられ、なぜかYahoo!トップまで行ってしまった。まさにメディアのピタゴラスイッチ! この話題のお陰で、地元の大阪では有名なテレビ番組の、『となりの人間国宝さん』というコーナーでも取り上げられ、いい思い出になった(ただし親は複雑に思っていたらしい)。

しかし、ライターの仕事を得たとはいえ、そのふたつだけでは日本より物価の低いベトナムでも生活できない。移住当初は200万あった貯金額も、受賞から間もなくしていよいよ1万を切り、数千円(!)になっていた。

(後編につづく)

※この記事はネルソン水嶋.jp掲載の「6年余りのベトナム生活であったことすべて書く」に加筆・修正したものです。

執筆者プロフィール

ネルソン水嶋という名前でライターをやっております、おもな媒体に『デイリーポータルZ』や『エキサイト』など。2017年11月から、世界各地のライターがカルチャーショックを紹介するサイト『海外ZINE』の編集長。ベトナムに6年3ヶ月住んでおりましたが、編集者としてたくさんの海外在住クリエイターと交わるために2018年6月末から拠点をバンコクに移動。関西人に会うと、探偵ナイトスクープに出演したことととなりの人間国宝さんに認定されたことを語りたがります。

記事やSNS

ネルソン水嶋.jp:https://xn--3ck5azf7a6868bmns.jp/
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