2018年07月04日更新

海外旅行でベトナム行ったらそのまま働くことになったーネルソン水嶋の仕事珍遊記vol.1

ライター、編集者としてベトナムで活動してきたネルソン水嶋さんが、現地での6年を振り返ります。日本のIT企業でエンジニアをしていた人が、どんな経緯でホーチミンで働くことに? なぜライターに? (編集部)


こんにちは、ネルソン水嶋です。

仕事、楽しんでますか?

唐突ですが、僕は人よりけっこう仕事を楽しんでる方なんじゃないかと思ってまして。

その背景も随分ヘンチクリンなもんだから、先日誰に頼まれもせず2万字ほどの自伝を書いたんです。すると意外と反響があって。今回はそちらを全面リニューアルしてここで書かせていただくことになりました。

2011年10月末から2018年1月末までベトナムのホーチミンに住んでいましたが、借りていた家を引き払い日本に戻り、先月からバンコクに拠点を置いています。

現地ではじめた『べとまる』というブログや、その受賞などをきっかけにライターになり、今は編集者としても活動しています。今後1年ほどタイに住むつもりですが、ベトナムは自分にとって第二の母国だと思っているので、今後もときどき行くだろうし、二年後までに戻るつもり。

期間にして6年と3ヶ月いた訳ですが、いろんなことがありました。楽しいことも悲しいことも山ほどあった。そこで今、僕がベトナムで経験したこと、とくに思い出深かったことをここに書き記します。

記事を書く理由はいくつかありますが、昔の自分のようにくすぶっている人に発破を掛けたいという気持ちが大きいです。とくに、今やっている仕事は自分らしくない、とかなんとか思ってるクセに真っ当風の言い訳を用意して踏み出せないでいる。そんな夢と惰性の間で苦しむ人に読んでほしいと思います。

社会人6年目の春。「もうダメだ!」と思った僕がしたこと


ベトナム移住の直接的なきっかけは、現地に住む日本人からの「スカウト」だった。

もうダメだ! と思った社会人6年目の春、僕は次の職場も決めないまま、新卒から勤めていたIT企業を逃げるようにして退職。正確には転職活動はしていた、というよりもどうしても入りたい会社があって三年に渡って転職の準備を進めてきたが、最終面接で落ちたことでパキッと心が折れてしまったことが背景にある。その存在を勝手な心の拠りどころとしていた僕は、目標とともに働くどころか生活する気力さえも失ったのだった。

しかし、無職になってしまえば、暇は暇で苦しいというわがままボディ(用法は違う)。「平日にしか出来ない」というしょうもない理由で、なんとなく皇居や国会議事堂の見学などをして過ごしていたずらに時間をつぶす。

だけどそれすらも飽きてきて、ふっと思い浮かんだ言葉が「海外旅行」。

当時27歳、実は一度も海外に出たことがなく、それを誰に言われる訳もなくコンプレックスに感じていた僕は、時間と多少の貯金がある今しかないと一念発起。この時点では、ただの旅行先としてすら、ベトナムの「ベ」の字も頭の中には浮かんでいなかった。

転職先も決めないまま海外旅行! はたから見れば能天気だが、本人は全然楽観はしていない。自己責任だが、海外旅行から帰ってきたあとはマジでどうしよ? という不安は人並みにあった。

そこで以前から使っていたとある風変わりなウェブサービスを利用。それは『元気玉』というもので、寄せられたお題に11人のアイデアマンが解決策をひとつ100円で売ってくれる。そこに「転職につながる海外旅行」というお題を投げた。

有名な会社なのでご存知の人も多いかもしれない、この運営元の『面白法人カヤック』こそが、前述の入りたかったが落ちてしまったという会社なのだった。アイデアに困っていたことは事実だが、ほとんど未練がましく接点を持とうとしていただけだ。そんな片恋慕をバッサリ切るかのごとく、回答のいくつかはもはや説教に近かった。

「海外旅行は娯楽なのでそれが転職につながることはないんじゃないでしょうか」

ごもっともかもしれないが、説教を100円で買うという気分は新鮮であり複雑だった。ほかにいくつか「それなら海外で就職しちゃえばいい」というものもあったけど、当時は「無茶苦茶言うなぁ」と苦笑いして終わり。このときはまさかその半年後に、本当に海外で働くことになるとは露ほども思わなかった。

元気玉は、オプション料金を払わなければお題と回答がウェブで公開される。それを知っていた僕は、どこの誰が興味を持つか分からないからと思って、手紙を入れた瓶を海に流すつもりで、投稿内容に自分のTwitterのアカウント名を載せておいたのだ。

目論見通りそこにリプライは飛んできてくれたのだけど、その主はベトナムに住む日本人。海に流すと書いたが、まさか本当に海の向こう側から連絡があるとは。

その内容は、「元気玉見ました、旅行をされるならベトナムに遊びに来てみませんか?」というものだった。その人はウェブ制作会社に勤めているらしいということから薄々感じていたが、会って話せばご明察。最初からスカウトのつもりだった、とのこと。

あとから分かったが、エンジニアは外に出たがらない人が多いのか、当時の日系IT企業の多くが技術系人材を探していたらしい。出会って2日目(2度目)の夜、現地のお店(冒頭の写真)で麺料理を食べながら「ホーチミンで働いてみる気はないですか?」と聞かれた僕は、二つ返事で快諾。

今でもその返事に後悔はまったくないが、今思えば、1日目には彼の友人のフランス人とアメリカ人とディナーを囲んでグローバル感を、2日目にはバックパッカー街でベトナム美女と飲み素敵な出会いを演出し、スカウト成功に追い込むピタゴラスイッチが仕組まれていたのかもしれない。

いや、そんな複雑なもんじゃないな、自らボーリングのようにゴロゴロと転がってホーチミンにストライクをかましただけか。日本での研修を経て、その4ヶ月後には旅行者ではなく在住者としてベトナムの土を踏んでいた。

ベトナムのシェアハウスに畳を搬入したときの光景

ベトナムへ旅行に行ったらそのまま就職→その後4ヶ月で無職に


ベトナムで就職したら4ヶ月で無職になった。旅行直前に「海外で就職しちゃえば」と言われて「無茶苦茶言う」と思った自分が、なぜ二つ返事で快諾したのか。理由は大きくふたつある。

ひとつは、中国の大連に移住した友人の存在だ。Twitterで知り合った彼は、就活に苦労していたかと思えば、いつの間にか地元を飛び出し大連に就職。お笑いという、趣味のところで気が合った人間なだけに、「新卒で海外に就職する」という行動は衝撃的で、「もうそんな時代なんだ…」と自分の海外観は大きく変わった。

ベトナムに入る一週間ほど前に彼と大連で会って話したことで、淡いながらも「海外に住んでみたいな」と思っていたのだろう。ただ、当時の大連は日系企業進出バブルで、彼の言う"幸運な話"が決して全世界的ではないと後に知ることになるのだけど。いずれにしろ、今になって思えば喜ばしい勘違いだった。

ふたつめの理由は、僕が就職したら任されるという業務が「ローカル市場向けの新規事業」だったから。エンジニアという仕事から逃げ出した僕が、再びIT企業への転職を決意した背景もそこにあるのだが、それは根の深い話になるのでひとまず省略。

こうして、2011年10月末から僕のベトナム生活がはじまった。今でこそたくさんの日系企業や飲食チェーンが集うホーチミンだが、当時はイオンもファミリーマートも丸亀製麺も、マクドナルドもスターバックスもない。

でも、そんなことはどうでもよく(そもそも最初からないものに期待はしていないし)、朝と夜に道路を埋め尽くすバイクの海、白米におかずをぶっかけて食べる大衆食堂の美味さ、停電になるとヌンチャクを取り出し中学生のように遊ぶスタッフたち、目に映るもの手に触れるものすべてがめちゃくちゃで新鮮で楽しかった。


ベトナムで売られていたヘンなDVDデッキ

が、それも最初の一ヶ月のうちのこと。

その会社はベトナム人スタッフが15人ほど、日本人スタッフが2人の会社。つまり自分は3人目の日本人ということだったが、一ヶ月後には再び2人に戻った。僕に声を掛けた方ではなく、古参の日本人社員がスイッチするように日本へ出向したのだ。

当然、彼の仕事は自分にスライドする。日が経ち、訝しがり、業を煮やし、「新規事業はいつ出来ますか」と訴えると、「日常業務をこなせないと新規事業などやらせない」という言葉が返ってきた。やらせない以前にやれないし、最初からそのつもりもなかったろう。

未練はないとはいえ、やりたいことをやるためにそれまでの生活を捨て、でも結局やれないと知ったときの苦痛たるやこの世のすべてが恨めしく思えるほどだ。するとみみっちくも、「前職は残業代がついたのに」と本末転倒な考えが浮かび、「来ない方がマシだった」と自らの選択を過ちにしてしまう。

そのうち「この人殴ったらどうなるのかな」とドエライことを考えている自分に気づき、数週間に渡りゆっくりと喉を振り絞るように辞意を申し出た。念のために断っておくが、人を殴ったことは5歳の頃の兄弟喧嘩で兄相手にただの一度だけである。

そんな調子なので、最後の方の人間関係は控えめに言っても最悪だったが、ベトナムに呼んでくれたことは感謝している。それほどやりたかった新規事業。といっても「何をするかも決まってなかった」と聞けば、なんだそれ? と思われるかもしれない。その内容は「住んでから考えて」と言われていたくらいで、今思えばその時点で実現も怪しかった。

そこに考えが至らない、あるいは目をつぶっていたほどに僕がこだわった理由は単純明快、新規事業に「クリエイティブ」を期待したからだ。

「クリエイティブ」、「クリエイター」、これは僕には大変根の深い話になる。何を隠そう僕はクリエイティブこじらせボーイだったのだ。ここから、時間は20年弱ほどさかのぼる。

「クリエイティブ」をこじらせるまでの10年間


小学生の頃の僕は、友だちも少なかったので家でひとりゲームに没頭することが多く、学校の教室ですら机の上での手遊びで自作のゲームを妄想する毎日を送っていた。はたから見れば根暗で気持ち悪いやつ。けっこういじめられたけど、それは今となってはどうでもいい。

間もなく先輩からからかわれて手遊びはやらなくなったが、そんな調子で、当時の頭の中はゲームのちゲームときどき塾。そんな僕が将来の夢を意識したとき、YouTubeに没頭する近頃の子どもが「YouTuberになりたい!」と目の前にある仕事らしきものしか見えていないように、「ゲームをつくる人になりたい」と思ったことは自然のなりゆきだった。

ロールプレイングゲームが好きだった僕は、設定やキャラクターをノートに書きなぐって妄想していた。その職業がゲームプランナーという名前だということは分かったが、当時の僕はあまりに主体性がなく、まずそもそも夢は叶えられるものだという発想がなかった。

あくまで消極的に、ゲームプランナーになれたらなりたい。イベントなどに「行けたら行く」と言う人がほぼ来ないことに通じるいい加減さである。高校で専攻を選ぶときにも「ゲームっぽいから」という理由から理系を選んだけども、そもそもゲームプランナーは文系に近い。

今思えばそれ以上に、「理系は就職に有利らしい」という周りに対する忖度だったと思う。担任の教師はきちんと「ゲームプランナーは文系」だとつっこんでくれたのだが、一度取った選択を覆すほどの気概もなく、情報技術系の大学へ。

この頃になるとゲームからも遠ざかり、ゲームプランナーに対して唯一あった憧れすらもなくなりかけていた。そこに、入学ガイダンスにおいて学長が口にした言葉がダメ押し。「アニメやゲームをつくりたくてこの大学に入る人も多いみたいだけど、ここにそういう道はない。みなさんはエンジニアを目指しなさい」

当時の僕は諦め忘れる理由がほしかったのかもしれない。「クリエイター」という言葉を耳にしたのは、そのすぐあとのことだった――。

中編はコチラ→僕は本気になるときに本気になれない人間だったのだ

※この記事はネルソン水嶋.jp掲載の「6年余りのベトナム生活であったことすべて書く」に加筆・修正したものです。

執筆者プロフィール

ネルソン水嶋という名前でライターをやっております、おもな媒体に『デイリーポータルZ』や『エキサイト』など。2017年11月から、世界各地のライターがカルチャーショックを紹介するサイト『海外ZINE』の編集長。ベトナムに6年3ヶ月住んでおりましたが、編集者としてたくさんの海外在住クリエイターと交わるために2018年6月末から拠点をバンコクに移動。関西人に会うと、探偵ナイトスクープに出演したことととなりの人間国宝さんに認定されたことを語りたがります。

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連載もの: 2018年07月04日更新

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