2018年03月13日更新

【厳選過去記事】伝統技術ディレクター・立川裕大「仕事」を語る(前篇)ー人が大勢いる場所で仕事をしても勝ち目は出てこないー

※読み物セレクション by 仕事旅行。これまでに公開したものから厳選した記事を再掲していきます。初出:2017年02月13日

様々なジャンルで、世の中面白くなるような仕事をしている方々が、その人の「仕事を語る」ロングインタビューシリーズ。今回のゲストは伝統技術ディレクターの立川裕大さんです。

日本各地の職人の技術や伝統の素材を生かし、建築家やデザイナーとのコラボレーションにより現代的な家具や照明、アートオブジェなどを生み出す、ものづくりプロジェクト「ubushina(産品)」

2000年に同プロジェクトを立ち上げた立川さんは、なぜ伝統技術の世界に惹かれたのか? 日本の職人と技術・産地の可能性とは? 前後編にわたってお届けします。 


聞き手:河尻亨一(銀河ライター/仕事旅行社・キュレーター) 

わりと天の邪鬼なとこがあって…人の行かないとこに行くんです


――立川さんは「伝統技術ディレクター」という肩書きで仕事をされています。今日はそれが「どういう仕事なのか?」といったお話、あるいは立川さんの現在にいたるまでのストーリーをうかがってみたいのですが。

立川:「伝統技術ディレクター」なんて肩書を使っているのは、たぶん僕しかいないんじゃないですかね? 昔はね、「デザインディレクター」の肩書きを使っているときもありました。ずいぶん前ですけど。

でも、どんどん増えちゃったんですよね。デザインディレクターって。それで途中で嫌になっちゃって(笑)。あと僕の場合、プランナーの側面もありますから。

――伝統工芸に関わる様々なプロジェクトを企画、プロデュースする仕事だと思いますが、立川さんはそもそも伝統技術やデザインの感覚はどこで身につけたんでしょう?

立川:伝統技術については、生まれ育った環境と関係あるかもしれません。長崎出身なんですけど、父が工芸品の卸売りをやってました。お土産物屋さんにべっこうを卸したりしてたんです。母は日本舞踊の名取さんでした。そんな家庭でしたから。

でも、学生時代に美大でデザインを勉強していたとか、そういうタイプではないんですよ。経済学部でしたからね。その頃はまだ日本の伝統技術を掘り下げようなんて思ってもいなくて。ただ、映画やファッション、音楽といったカルチャーは大好きで、なかでも当時世間からまだあまり注目されていなかった「インテリアデザイン」というジャンルに、なぜかとりわけ興味を持ってしまって。

20歳のとき、六本木のAXISビルの中にあったカッシーナのショールームを見に行って、「うわ、カッコいい!」って衝撃受けたんです。で、「ここの会社に入ろう」と思って入っちゃった。それが1988年。もうバブルのど真ん中で、狂乱騒ぎの時代だったんですけど。

――カッシーナと言えば、イタリアモダン家具の超有名ブランドです。

立川:まあ、その頃日本では一般にまだほとんど知られてないブランドだったんですけど。だけど、めちゃくちゃ売れましたね。僕は営業職で入社して、入って一年目で8000万円の伝票手書きで切ったりしてましたから(笑)。設計事務所にカタログを持って行って、「お宅がいま設計してらっしゃるホテルに入れてもらえませんか?」みたいな、そんなスタイルで営業していて。

――いまでは想像しにくいですね。まさにバブル…。

立川:信じられないですよね? でも忙しかったですよ。寝る時間はないし、家にも帰れないしで。ただ僕は、会社の中でデザインが一番好きだったからでしょうけど、なんかね、入ってみるとそこは自分がイメージしていたようなデザインカンパニーじゃなかったんです。4~5年務めて、僕のデザインに対する情熱に応えてくれる環境じゃないってことがわかったので辞めました。

――で、次はどんな仕事に?

立川:先輩が始めた会社、まあ、会社って言っても家具のセレクトショップの走りみたいなお店なんですけど、店長としてそこを手伝うことになったんです。仕事が面白かったんですよね。

そのお店では色んな国のインテリアを扱っていて、イタリア以外の国のデザインも面白いなあってことに気づいたり。「アメリカミッドセンチュリーってこんな感じなんだ」なんて夢中になってやっているうちに、デザインに少しずつ世間の注目が集まり始めたと。

「Casa BRUTUS」の創刊が1998年なんですけど、デザイン好きだってことで重宝してもらえましたよね。雑誌に掲載するコラムを書いたり、椅子を100脚選んだり。2000年代に本格的なデザインブームになることを考えると、僕はちょっと早かったんじゃないかと思います。それが良かったのかも。

――そこは重要な気がします。デザインブームになってからデザインに興味を持っていたら、詳しい人もいっぱいいるでしょうから。カッシーナのショールームで衝撃を受けてというお話もありましたが、それにしても「デザイン家具」なんて言葉がそんなに広まっていない時期に、そこまでインテリアの世界に惹かれたのはなぜですか? 

立川:僕はわりと天の邪鬼なとこがあって…人の行かないとこに行くんです(笑)。人がいっぱいいるところでコチョコチョやってるだけだと、勝ち目って出てこないじゃないですか。まあ、結局好きだったってことなんでしょうけど。

で、確か33歳だったと思うんですけど、1999年に独立してちょこちょこイタリアに行ってたんですよ。イタリアってほら、ミラノサローネっていう家具の展示会が4月にありますよね? そこで業界の最新情報がわっと集まりますから、半分仕事か遊びかわからないような状態で頻繁に足を運んで。

そのときラッキーだったのは、イタリアにおけるデザインの巨匠みたいな人たちに出会えたこと。僕の友人たちがミラノでデザインの勉強をしていて、その人たちがつないでくれるんです。「ちょっと遊び行こうよ」なんて、そんな軽いノリで。向こうも全然偉ぶった感じじゃなく、気さくなんですね。


立川さんのオフィスには伝統技術を生かした家具や素材がショールームのように並ぶ(写真:島田綾子)

デザインの巨匠たちからもらった2つのギフト


――私も経験ありますが、どんなジャンルでも超大物の人って全然偉そうにしないですね。ちなみにどういう方たちですか、巨匠というのは?

立川:例えば、アキッレ・カスティリオーニさん。あとエンツォ・マーリさんとか。そういうデザイナーのご自宅やアトリエに行って、かわいがってもらってたんですね。友だちが僕のことを紹介してくれて「こいつ、カスティリオーニさんの照明売ってたんですよ」なんて言ったら、すぐアイスブレイクですよ。「そうかそうか、日本ではどうだ?」って。

――そういう方々に会えるというのは、すごく刺激になると思います。

立川:ラッキーでしたよね。で、彼らとのやり取りの中で教えというか、"ギフト"をふたついただけた気がして。

――ギフト? どういうプレゼントですか。

立川:ひとつはね、「消費経済の奴隷になるような仕事に終始するな」ってこと。「君たちがやろうとしているのは、文化を足場にして社会を改善していく仕事なんだから、それを肝に銘じておきなさい」ということを言われたんです。僕、ピンと来なかったんですけどね、最初は。

でも、カスティリオーニさんの「アルコ」っていう照明器具でも、考えてみると「天井の穴から人間を解放するプロジェクト」だったわけですよ。どういうことかと言うと、ペンダントライトって天井に穴を開けて吊るすじゃないですか? 通常テーブルの真ん中に合わせて「このへんかな?」って感じで穴の位置を決めるわけですけど、これってシチュエーションが変わった瞬間に不便な話で。

――不便というのは?

立川:例えばホームパーティーしようと思って、テーブルの位置を変えたら途端にライトが邪魔な存在になるわけです。頭ぶつけちゃったりね。でも「アルコ」は床に据え置きにして、人の背丈よりも大きいアーチを設けることで、部屋のどんな場所でも自在に光が当てられるようになっている。カスティリオーニさんはめちゃくちゃ合理的な人なんですけど、これなんてすごいコンパクトなノックダウンのデザインでね。もうIKEAも真っ青みたいな(笑)。

すべて理にかなったデザインになっていて、生活をよりよくするための何がしかの提案が含まれているんですよ。だから「いまカスティリオーニさんが生きてたら何を考えるのかな?」なんて想像するだけで楽しいですよね。

エンツォ・マーリさんはまだご存命ですけど、どのプロダクトもすごく美しい。でも、彼らは自分たちの仕事が経済の中にどっぷり巻きこまれることに対して、「けしからん」って思ってるんですよね。

マーリさんは、自分の家具の図面を本にしてますよね。「Do it yourself」で家具ができるプロジェクト。「オレがデザインした家具をそんなばかばかしい値段で買うくらいなら、自分で作ればいいじゃない?」って。消費社会に対するアンチテーゼなんですよ。

――デザインと言うと「カッコいいかどうか?」といったことに気が行きがちで、社会や生活の課題を解決するための表現なんだという点がフォーカスされないことが多いですね。

立川:僕が最初勤めていた会社は、「カッコいい」がすべてだったんですよ。カスティリオーニさんのアルコだって僕は何台も売ったはずだけど、意味は知らなくて。クライアントにも「カッコいいでしょう?」って営業するわけですよね。

だからそれを作ったデザイナー本人のお話を聞いて衝撃を受けたんです。デザインにとって「ほんとに大事なことが何なのか?」を教わって。それは「必要とされるものをつくる」という掟です。反対に「欲望を煽るもの」や「必要そうに見せていまさら必要ないもの」「機能をでっちあげてるようなもの」の誘惑には乗ってはいけないと。

その教えがひとつ目のギフト。もうひとつはもっとシンプルな話で、「僕が日本人であること」に巨匠たちが気づかせてくれました。彼らは本物のインテリですから、聞いてくることも「竜安寺の石庭についてどう思うか?」とか「桂離宮は行ったか?」みたいなノリなんですよね。どうかすると平家物語の冒頭から読み始めそうな(笑)。

で、あるとき「君がイタリアのデザインを好きなのはわかるけど、日本人なんだから、自分の足元を見たらどうだい?」って言われて。それがきっかけで始めたのが「ubushina(産品)」というプロジェクトなんです。それまではイタリアや海外の家具をクライアントに納めてたのが、日本の生産背景に変わったんですよ。完全にメイドインジャパン。それも伝統技術を切り口にしたプロダクトに。

「ubushina」っていうのは生まれた場所という意味で、自分のルーツやアイデンティティを示す言葉です。「産土(うぶすな)」と同じ意味で、結構好きな言葉なんですけど。


取材中のひとコマ(写真:島田綾子)

最初の仕事は歯を食いしばって産んだ


――「ubushina」では、どういう風に仕事を進めているんですか。

立川:仕事の内容としては、完全な"ミドルウェア"です。我流の言い方ですけど、職人はハードウェア、デザイナーはソフトウェア、そして彼らを引っ張り出す僕らみたいな立場の人はミドルウェアだと考えているんです。

例えば、設計事務所に「こういう技術があるんですけど」って働きかけてフィードバックをもらい、僕らのほうで「これだったら漆がいい」とか「あそこの産地ならできそうだ」ってことで職人とのやり取りを重ね、ゴーが出ると作って納品するという流れですね。

――そうなると扱う商品から、やりとりをする人まで全然変わってきますよね? だれも手がけていない仕事だったと思うんですけど、難しさはなかったんでしょうか。

立川:最初は泣かず飛ばずでしたね。1999年に独立して翌年くらいにきっかけが生まれて、職人さんたちとのお付き合いを始めたんですけど、お互い慣れてなくて。設計事務所から「こんなのはどう?」って言われても、その提案に全然応えることができなかったんです。最初の3年くらい、話は来るけどなかなかアウトプットが出せなかった。

軌道に乗り始めたのは「HOTEL CLASKA」の仕事からでしょうね。たまたま僕が「ホテルニュー目黒」というCLASKAの前身になるホテルにリノベーションを提案したことから、プロジェクトの取りまとめ役として企画チームの中いたんです。で、「絶対ここでやろう。ようやく目に見える形になりそうだ」と。

それで漆でパネルを作ったり真鍮で照明器具を作ったり。実はあのホテルの内装には、鋳物や竹編み、ブナコといった日本の伝統技術がふんだんに使われているんです。予算が少なくて大変だったんですけど、歯を食いしばってやりましたよね。

――「CLASKA」の内装に「日本の伝統技術がふんだんに使われている」と聞いてちょっとビックリすると同時に、言われてみると「確かに」と思います。実はこないだ取材で行ったばかりなんですが。で、あれはいわゆる「和モダン」みたいなものの先駆けだったんじゃないかと。

立川:ホテルのオープンは2003年なんですけど、当時はCLASKAの1部屋を事務所替わりに使わせてもらっていたので、僕にとってはショールームでした(笑)。お客さんが来たら見てもらって、ようやく産声をあげたというか。


布張り漆塗を施した「HOTEL CLASKA」のカウンターパネル(「ubushina(産品)」サイトより)

思い起こせば、「ubushina」を始めてもう17年目になるんですよね。いまはほんとにいろんな案件やってますけど、伝統的な技術が入りつつ、モダンであるからこそ説得力もあり、なおかつ未来につながるコンテンポラリーな要素も備えたものを作りたいと。それは最初から貫こうとしている信条みたいなものですね。(後篇に続く)

※後編はコチラ→伝統技術ディレクター・立川裕大「仕事」を語る(後篇)ー「これだけは人に負けないもの」を自分の肩書きにしたー

ゲスト・プロフィール

立川裕大(たちかわ・ゆうだい)

株式会社t.c.k.w 代表取締役 伝統技術ディレクター / プランナー。1965年、長崎県生まれ。

日本各地の伝統的な素材や技術を有する職人と建築家やインテリアデザイナーの間を取りなし、空間に応じた家具・照明器具・アートオブジェなどをオートクチュールで製作するプロジェクト「ubushina」を実践し伝統技術の領域を拡張している。「東京スカイツリー」「八芳園」「CLASKA」「ザ・ペニンシュラ東京」「伊勢丹新宿店」など実績多数。

長年に渡って高岡の鋳物メーカー「能作」のブランディングディレクションなども手がけており、高岡鋳物・波佐見焼・長崎べっ甲細工・甲州印伝・因州和紙・福島刺子織などの産地との関わりも深い。

2016年、伝統工芸の世界で革新的な試みをする個人団体に贈られる三井ゴールデン匠賞を受賞。

自ら主宰する特定非営利活動法人地球職人では、東日本大震災復興支援プロジェクト「F+」を主導し、寄付付きブランドの仕組みを構築し3年に渡って約900万円を被災地に送り続けた。

インタビュアー・プロフィール

河尻亨一(かわじり・こういち)
銀河ライター/東北芸工大客員教授。1974年生まれ。雑誌「広告批評」在籍中に、多くのクリエイター、企業のキーパーソンにインタビューを行う。現在は実験型の編集レーベル「銀河ライター」を主宰し、取材・執筆からイベントのファシリテーション、企業コンテンツの企画制作なども。仕事旅行社ではキュレーターを務める。アカデミー賞、グラミー賞なども受賞した伝説のデザイナー石岡瑛子の伝記「TIMELESSー石岡瑛子とその時代」をウェブ連載中。
ロングインタビュー: 2018年03月13日更新

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