2018年02月02日更新

卒寿を迎えた作家の小沢信男さん、あなたはどうやって仕事をしてきましたか?【前編】-大先輩に訊くvol.1-

嘘かホントか。「人生100年」なんて巷ではまことしやかに囁かれている昨今。ひとつの会社にずっと居続けて、定年したら仕事はおしまい−−なんて生き方、だんだん難しくなってる時代と言えそうです。

そこで仕事の大先輩とざっくばらんにおしゃべりしながら、面白く長ーく働き続けるための秘訣を聞いてみることに。ゲストは作家の小沢信男さんです。

90歳になったいまも「書く」という仕事を続けている小沢さん。昨年も『私のつづりかた−銀座育ちのいま・むかし』という書籍など2冊を上梓。

これまで詩や俳句、ルポルタージュにエッセイ、伝記、小説、戯曲などなど、いろんなジャンルとテーマの作品を発表してきただけでなく、タウン誌の草分け「うえの」の編集にも50年以上たずさわってこられました。

70年にもわたって、大先輩はどうやって仕事をしてきたのでしょう? 聞き手は編集長の河尻がつとめます。


小沢信男さんの著作①:『私のつづりかた−銀座育ちのいま・むかし』と『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか(共著)』。戦前・戦後と小沢さんは「書く」という道を散歩するように歩いてきた 

マイナスはいつのまにかプラスになる。そういうことがあるねえ、と思います。


河尻編集長(以下、河尻):小沢先生、ご無沙汰しております。今日は「働き方」をテーマにお話うかがいたいと。色々言われているように、いまってちょっと働く人が窮屈な時代というか。

小沢信男さん(以下、小沢):ほんとだよ、ほんと。ひどい世の中になっちゃって。

河尻:でも、先生はあまり窮屈そうに見えませんね。今日はその辺の極意を教えていただけましたら(笑)。去年、卒寿(90歳)を迎えられたということですが、先生は作家としてまだまだ現役で、ひょっとすると私なんかより仕事量も多いんじゃないかと。

小沢:まあ、僕は一生アルバイトをやっていたようなものなんですよ(笑)。学生時代の延長でやってきたからね。

河尻:バイト(笑)。確かに他人から見ると、先生のキャリアはちょっと不思議でもあって。『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』ってタイトルのインタビュー本が出てるくらいですからね。

小沢:ほっほっほっ。このときはね、津野(海太郎)君(※1)としゃべくって、ここだけの雑談だと思ってたら本になってビックリしちゃってさ。そうだったら、もうちょっとちゃんと話すんだったなと(笑)。

河尻:いや、”食って行き方”のヒントいっぱいのトークです。ちなみに先生は何年くらい仕事されてきたんでしょう?

小沢:いやあ、それはねえ、ずっと働いているわけだけどさ。あのね、若いときは病気してたからね。旧制中学校で3年のときに肋膜炎ということで1年遅れて。

河尻:さっきの本にも出てきますが、大変ですね、病気は。

小沢:でも、肋膜なんていうのはすぐ治っちゃうんだよ。それで翌年戻ったらまた再発して、二度、休学したんですけどね。一番最初のときは「落伍した」っていう感じがあったんだな。みんな進級してるわけだから。

河尻:悔しいですよね。「自分はみんなと違う」みたいな気持ちになるのでは?

小沢:うん、ところが二度目に休学したときはわりと平気でね。慣れちゃった感じがするのと、2年も落第すると、一種、特権ができるんだよ。なんだろう? 先生もなんとなく別物扱いしてくれるというか。だから落第も二度ぐらいやったほうがいいよ(笑)。

河尻:1回落ちこぼれたくらいではまだ甘いと(笑)。あんまり頑張って他人と横並びにならなくていいってことかもしれませんね。

小沢:まあ、当時は戦争中だからね。世の中すっかり軍事色になっちゃって。入学したときは黒い服でちゃんとした徽章の帽子。つまり制服、制帽で通ったんだけど、2年後の後輩連中はね、戦闘帽のカーキ服なんだよ。

僕なんてそうなってからも相変わらず黒い帽子、黒い制服で行ってるから、ひと目で落第生だとわかるわけだ。先生からも「どうして揃えないんだ?」って聞かれるんだけど、「親が貧乏ですから、買ってくれないんです」って答えたら、それで通っちゃうんだよ。

河尻:ある種の開き直りというか(笑)。でも、戦時中にそれはすごい。当時なら”非国民”的なことですよね?

小沢:いや、そうなると逆に楽なんですよ。軍隊でもそうだって言うね。万年二等兵っていうのは年数が長いから、やっぱり特別扱いなんだって。位は低いんだけど兵隊の中の神さまみたいになっちゃって。

河尻:それはサラリーマンで言うと、ずっとヒラ社員ということなんですけど、むしろその境遇を楽しめるようになるといいのかも。

小沢:うん、ちょっと落伍するのもいい。かえってね。いざ落伍してみると楽な面ができてくる。

たとえば1時間目が化学の授業で、気にいらないから行かないで、2時間目から行くんだよ。すると化学の先生と出会うわけさ、廊下でね。で、「このやろう!」というわけで職員室で問題になったって言うんだけど、こっちは知らぬが仏でさ。戦後に卒業してから、クラス担任だった鈴木彌門先生から聞かされて、びっくり(笑)。彌門さんが身代わりに矢面に立っていたのかな。

河尻:2回も落第した人には、みんな気を遣わざるをえないと言いますか。

小沢:そう。気を遣って、手を焼いたりしてくれてたのね(笑)。彌門さんにはいろいろお世話になったんだ。それでのちに、空襲の焼跡見仏記の『東京落日譜』を書いたときに、相棒の同級生の名を「ヤモン」として、敬愛の記念にしました。

だからね、あとになってみると結核が私の財産だね。マイナスはいつのまにかプラスになる。そういうことがあるねえ、と思います。

あと正直に言うと、病気になったことで結局20代は親のすねをかじれたからね(笑)。すると食う寝るに困らないわけよ。もちろん小遣いはないしさ、本1冊買うにも考えちゃうような暮らしではあるけれど、親のすねをかじれたことで20代ずっとぶらぶらしてこられたっていうことはある。それは申し訳ないようなもんですけど。


小沢信男さん  

詩は書いていたの。詩人であろうと思って


河尻:先生、書く仕事はいつ始めたんですか?

小沢:日大の芸術学部にいたとき、アルバイトを始めたんですね。瀬沼茂樹という先生がいて、この人は伊藤整(※2)の仲間で、ご本人は地味な評論家だったんですけど、僕は気にいって。

なんでかと言うと、学生に賛成意見だけじゃなくて反対意見も出させるから。あるテーマを出してだれかが賛成すると、「反対の人いないか?」って言うわけ。どっちがいい、悪いじゃないんだよ。議論することが大事だっていう。それで面白い先生だなあと思ってくっついた。

そしたら瀬沼先生が、島崎藤村論とか夏目漱石論を書くときに、あの頃はまだコピー機もないから、参考文献を図書館に行って書き写してこいと。で、ちょっとお小遣いくれるわけ。

河尻:いいバイトですね。

小沢:うん、最初は筆写だったんだけど、そのうちダイジェストをやれと。一編の小説の概要を原稿用紙5枚くらいの読物に縮めるのが流行ってて、瀬沼さんが「お前、書け」って代筆を命じられた。有島武郎の『或る女』を5枚に縮めろ、なんて。冗談じゃないよ(笑)。

河尻:大長編ですから。

小沢:それで「できません」と。でも、「やれ」って言うんだよね。そういうのを何度かやってるとわかったことがあって、ダイジェスト作りに苦しむ小説は傑作で、わりと簡単にできるのは、たいしたことないんだよ(笑)。そういう修業が勉強になったよね。

河尻:いまで言う「まとめ」ですね。それ、すごくいい勉強になりそうです。

小沢:しかもそのたびにお小遣いもらうわけだ(笑)。日大の芸術学部と言うとあの頃は田舎の小学校みたいな学校だったけれど、面白かった。「江古田文学」(※3)という雑誌が始まったところでね。そこにちょっと書いた縁で、花田(清輝)さん(※4)に引っ張られて。

河尻:「新東京感傷散歩」ですね。でも、花田清輝さんに褒められるっていうのは、名誉なことなんじゃないですか。業界の重鎮というか。当時、一番影響力のあった評論家でしょうから。

小沢:そうなんだけどねえ。でも、花田さんのあれはね、早稲田大学新聞の文芸時評の最後のところに、僕の書いたものについて、ほんの1、2行書いてあるだけなんだよ。もう、ほんのちょっと最後に「こんなやつに注目した」っていうぐらいのことなの。

河尻:それでもビックリしたんじゃないですか? 

小沢:全然知らないでいてさ。すると、「新日本文学」(※5)の武井昭夫さんから葉書が来たんだ。大学の文芸学科研究室が「江古田文学」の編集室でね。編集室の机のひきだしをあけたら、小沢信男様ってあるから、「あれ? 俺宛ての葉書だ」と思って読んでみると、花田さんがあなたに注目しているのは、我々同世代の喜びだと。ついては遊びにいらっしゃいって書いてあった。それがご縁でオルグられちゃったの。武井さんの葉書1枚で。

河尻:ダイジェストのバイトやってらしたというお話でしたが、やっぱり創作を仕事にしたいと思ってたんですね? 

小沢:いやあ、中学生の頃から詩は書いていたんだけどね。詩人であろうと思って。まずは丸山薫さん(※6)にへたくそな詩を送って、押しかけの門下生ですよ。20歳過ぎの頃、それでいきなり同門の女友達が何人もできちゃって。でも、丸山さんは、弟子とか門下生なんて呼び方はせず、若い友人たちって言うのね。先生って言われるのも嫌うんですよ。

「新日本文学」もそうだった。花田さんだって、中野重治(※7)だって、佐多稲子(※8)だってみんな「さん」同士でね。


小沢信男さんの著作②:『東京骨灰紀行』と『ぼくの東京全集 1951-2016』。「東京を歩く」は小沢さんのライフワーク。散歩ブームの大先輩でもある  

個を確立して個を超える。それはみんな共通の思いになってきている


河尻:じゃあ、僕もこのあとは「小沢さん」に切り替えて行こうかと(笑)。

小沢:そうだ、そうしようよ。それで、武井さんから「早稲田大学新聞」見せてもらってさ。へーえと思った。

河尻:それにしても先輩・後輩のいい関係というか。年の差はあっても対等な"同人"なんですね。

小沢:うん、そうなんだ。その後もね、僕が何か書くと花田さんが時評のおしまいのへんで、ちょっと触れてくれるのよ。見どころのある若いやつがいるって。べた褒めなんかじゃないんだ。冷やかしているような感じもあって、むしろうろたえました。はっはっはっ。

「新日本文学」に出入りするようになってからも、花田さんが来たらお辞儀するんだけど、じろっと睨んで行っちゃってさあ。「あれ? オレのことわかってるのかなあ?」なんて。

花田さんって人は、パーソナルな付き合いをしない人だったから。ある意味じゃあ、不器用で寂しいような人だよね。長谷川四郎さん(※9)とは、僕、仲がよかったけど。そんなこんなであれやこれや。こんなこと言ってたら、きりがないね(笑)。

河尻:いや、面白いですよ。ひとつうかがってみたいのは、花田清輝さんと言えば、僕らの世代はもちろんリアルタイムで接したわけではないのですが、個人的に気になる評論家ではあって。「共同制作」が大事だという主張をされましたよね? 

小沢:戦後すぐから言ってるね、共同制作だって。ようするに、こういうことよ。文学というのは作家さまに著作権があって、私有化されてるわけだよね。でも、花田さんはそうではないと。そもそも芸術は、私有が目的ではないでしょう。

個の確立ということは大切で、著作権のなかった昔にずるずる戻ればいいわけでもない。その上で個を超えていけと。共同制作によって、どうやったら近代的な個を超えられるのか? これはそういう話なんです。でも、難しいんだよ、そんなの(笑)。

河尻:小沢さんも戯曲を共作されてますね。

小沢:そう。あの戯曲は、長谷川四郎さんが言い出しっぺなんだけど。それ以前にも、労働者作家たちに呼びかけて、それぞれの職場のことを書こうよって、共同で一編の読み物にして発表したんだが。でも花田さんは「そういうことじゃないんだ!」って(笑)。

つまり、ひとつのテーマでみんなで雪だるまみたいに作ればいいっていうんじゃない。それぞれがそれぞれに徹して書いていて、組み合わせれば共同であり、共有の作品となる。

考えてみれば、突拍子もないことを言ってた人で、死ぬまで言い通したのがすごいんだけれど。そのイメージの刺激力というのは我々の世代には強かった、ということだな。

河尻:むしろいま新しい気がします、その視点は。インターネットが出てくると、そういう試みは創作以外のジャンルでも盛んになってきていて、シェアリングエコノミーなんて言うのも、ある種、自由と共有の両立を目指すところがあると思うんです。でも、個人とコミュニティの一致点というのは、やはり容易に見つかるものではなくて。

小沢:なるほど。そうか、そうか。じゃ、花田さんという人はものすごく早かった人で、ちゃんと理解されないまま死んでった人だ(笑)。でも、近代は行き詰まって、近代を超えようというのは、だいたいみんな共通の思いになってきているよね。

共同制作のいいサンプルはあるんですよ。菅原克己(※10)の「ブラザー軒」っていう詩を高田渡(※11)が歌ったりとか。そのことでより素晴らしい作品になって、より豊かに、よりみんなのものになっていく。YouTubeで見られるんだけど(笑)。



河尻:夏にこの曲、小沢さんに教えてもらってハマりました(笑)

小沢:うんうん、いいねえ、YouTubeは。はっはっはっ(笑)

あの頃はみんなぶらぶらしてた。のんきな時代だったよ


河尻:ところで、就職しようとかいうのは、1回も考えたことないですか?

小沢:あんまりする気はなかったんだけど、一度、半年ぐらい勤めたことはあるの。これはこれでまたいろいろあるんだけれど、僕が「新日本文学」に関わり始めたときに、富士正晴さん(※12)が小説を書いたりしてさ。

河尻:富士さんは大阪の方ですよね?

小沢:大阪です。「VIKING」っていう同人誌を主宰していて。花田さんが注目の人で、それで「新日本文学」にも登場された。そのころ「江古田文学」の仲間の一人が関西へもどって「VIKING」に入ったりしてさ。そんなご縁で大阪に行ったとき、富士さんの家に遊びに行ったのがはじまりで。「VIKING」の東京ブランチをつくったりして。

あれは卒業した年の夏ごろだったかなあ? お宅へ伺ったら「おまえ、何してるんだ? 卒業したのに、ぶらぶらしてるのか」って。

河尻:心配してくれたんですね。

小沢:そうだろうねえ。まあ、もっともあの頃はみんなぶらぶらしてたの(笑)。文芸科なんていうのは、1学年に50人いても20何人くらいしか卒業してない。半分に減っちゃうんだ。卒業してもね、いきなり就職したのは3人ぐらいで、あとはみんな。

河尻:ぶらぶら?

小沢:そう、不景気だから。どうってことないのよね(笑)。昭和30年くらいで、それから神武景気とかになってくるんだけど、それよりちょっと前の話。

ぶらぶらしてても、仕事はいろいろあったから。それこそ新宿歩いてるとさ、看板を前うしろに提げて、突っ立ってるやつがいるんだよね。それで見たら、なんだー、こいつかと。

河尻:知り合いだったんですね。

小沢:同級生だったよ(笑)。そうやってなんやかんやして食ってたね。で、富士さんのところに行ったときも、「はい、ぶらぶらしてるんです」って言ったら、「じゃあ、この人のところに行ってみろ」と。

ようするに富士さんは「働き口がみつからないでいる」と思ったんだね。こっちは勤める気もないのにさ。それで紹介してくれた先が、これがまたすごいオフィスで。神保町の「※ラドリオ」(※13)っていう喫茶店の二階へ上がると机がいくつもあって、その机ひとつが1社なんだよ(笑)。そういう時代があってさ。

河尻:いまで言うコワーキングスペースですね。ベンチャーな人たちがひとつのフロアにいっぱいいて、机一個で会社みたいな。

小沢:じゃあ、同じようなもんだ(笑)。で、その会社をやっていた武内辰郎さんという人から、貴司山治さんっていう作家を紹介してもらって。

河尻:その人のところに勤めたんですか?

小沢:うん。貴司さんというのはもともとはプロレタリア文学系の大衆作家なんだけど、当時は作家クラブという商売もやっていたんですよ。小説家に連載用の小説を書かせて、絵描きの挿絵もつけて、それを地方新聞に売るんです。

ようするにあの頃は地方新聞がいっぱいあって、そこに連載小説を売り込むんだけど、地域が違うから同じ小説をあちこちに売れるわけ。掲載の時期がさまざまで、こっちじゃ終わってるのにあっちで始まるっていう…のんきな時代ですよ(笑)。

河尻:いろんなビジネスがあったんですね、当時から。

小沢:うん、貴司さんは吉祥寺の自宅の一部屋を事務所にしててね、そこに半年ぐらい勤めた。

それは面白かったけどね。毎日、小説家のところに行って原稿をもらって、絵描きに届けて挿絵をもらったり。組み合わせた原稿を今度は銀座にある地方紙の支社に配ったり。当時は定刻が過ぎるとエレベーターボーイが消えて動かなくなるんだよ。それで並びのビルの階段を上っては下り上っては下りしてね(笑)。

でも半年ぐらいやっているうちに風邪ひいちゃって。ゴホンゴホン咳をしながらやってたら、元結核患者につき心配されて「ちょっと休みなさい」ってことになったのね。「治ったら戻って来いよ」って言われたけど、もうその頃には戻る気はなかったなあ。

後編はコチラ→https://www.shigoto-ryokou.com/article/detail/349

聞き手:河尻亨一/取材協力・写真:山田智子

Profile:小沢信男(おざわ・のぶお)

1927年東京生まれ。銀座西8丁目育ち。日本大学芸術学部卒業。大学在学中に執筆した「新東京感傷散歩」を評論家・花田清輝に評価され、以降、小説、詩、俳句、評論、評伝、ルポルタージュなど、多岐にわたる文筆活動を行う。

著書に『わが忘れなば』(晶文社)、『定本 犯罪紳士録』『裸の大将一代記――山下清の見た夢』『東京骨灰紀行』(筑摩書房)、『通り過ぎた人々』(みすず書房)、『本の立ち話』(西田書店)、『捨身なひと』(晶文社)、『俳句世がたり』(岩波新書)など。

ほかロングインタビューを収録した『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(津野海太郎・黒川創氏との共著/編集グループSURE)なども。

昨年は、小学2年生だったオザワノブヲ少年の作文と絵をもとにつづられた『私のつづりかた――銀座育ちのいま・むかし』(筑摩書房)、デビュー以来の文章より編まれた『ぼくの東京全集』(ちくま文庫)の2冊を上梓。


(注釈)   

1.津野海太郎(つの・かいたろう):1938(昭和13)年福岡県生まれ。評論家、演出家、編集者。大学卒業後に「新日本文学」の編集者となり、1965年晶文社に入社。近著に『花森安治伝――日本の暮しをかえた男』『百歳までの読書術』など。「季刊・本とコンピュータ」の編集長も務めた。

2.伊藤整(いとう・せい):1905(明治38)年北海道生まれ。評論家、小説家。ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』、D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』などの翻訳でも知られる。「意識の流れ」や「内的独白」の手法により人間の深層心理を描こうとする「新心理主義」を唱えた。評論に『小説の方法』『日本文壇史』ほか。1969年没。

3.『江古田文学』:日本大学芸術学部文芸学科に編集部をおく文芸雑誌。1950年12月に第1号を刊行。現在は年3回発行。

4.花田清輝(はなだ・きよてる):1909(明治42)年福岡県生まれ。評論家、小説家。1946年、戦時中の評論をまとめた『復興期の精神』を発表し、脚光を浴びる。戦後は新日本文学会に属し、52~54年には『新日本文学』編集長をつとめた。前衛芸術運動を推進するなど、指導的役割を果たす。評論に『近代の超克』、戯曲に『泥棒論語』、小説に『鳥獣戯話』など。1974年没。

5.『新日本文学』:文芸雑誌。1945年12月に発足した文学団体、新日本文学会の機関誌として、翌年、中野重治、宮本百合子らを中心に創刊。プロレタリア文学運動の延長線上にある民主主義文学を主張、第二次大戦後の文学推進の一翼を担った。2004年終刊。

6.丸山薫(まるやま・かおる):1899(明治32)年大分県生まれ。詩人。1934年、堀辰雄、三好達治らとともに、詩誌『四季』(~43年)を創刊。柔軟で彫りの深い詩風で知られる。詩集に『帆・ランプ・鴎』『物象詩集』ほか。1974年没。

7.中野重治(なかの・しげはる):1902(明治35)年福井県生まれ。小説家、詩人、評論家。プロレタリア芸術運動の中心的人物のひとり。戦後、民主主義文学者の結集につとめ、新日本文学会の発起人となった。小説に『空想家とシナリオ』『歌のわかれ』、評論に『斎藤茂吉ノオト』など。1979年没。

8.佐多稲子(さた・いねこ):1904(明治37)年長崎県生まれ。小説家。1915年に上京後、キャラメル工場で働き始め、以降、中華そば屋、料亭、メリヤス工場などを転々とする。1926年、『騾馬』の同人であった中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄らとの出会いをきっかけに、文学の道へ進む。著書に『くれなゐ』『私の東京地図』『樹影』『時に佇つ』『夏の栞――中野重治をおくる』など。1998年没。

9.長谷川四郎(はせがわ・しろう):1909(明治42)年北海道生まれ。小説家、翻訳家。1952年、シベリアでの捕虜体験を描いた『シベリヤ物語』を発表、異色の戦後派として静かなブームを呼ぶ。その後、新日本文学会で活躍、花田清輝とともに60年代の同会を支えた。著書に『鶴』『阿久正の話』翻訳に『デルスー・ウザーラ』など。1987年没。

10.菅原克己(すがわら・かつみ):1911(明治44)年宮城県生まれ。詩人。詩集に『日の底』『陽の扉』『陽気な引っ越し』小説に『遠い城』など。詩誌「列島」などに作品を発表し、新日本文学会のメンバーでもあった。1988年没。近年再評価の声が高く、幅広い世代にファンを持つ。毎年4月に故人を偲ぶ「げんげ忌」が行われている。

11.高田渡(たかだ・わたる):1949(昭和24)年岐阜県生まれ。フォークシンガー。代表曲に「自転車に乗って」「コーヒーブルース」ほか。詩人・山之口貘の「生活の柄」、菅原克己の「ブラザー軒」など現代詩に曲をつけた作品も多く、飄々とした独特のキャラクターも愛された。2016年にはガリガリ君(赤城乳業)のCM音楽に「値上げ」が使用され話題になるなど、いまなお人気がある。

12.富士正晴(ふじ・まさはる):1913(大正2)年徳島県生まれ。小説家、詩人。戦前、野間宏らとともに詩誌『三人』を創刊。1947年には、島尾敏雄らと文芸同人誌『VIKING』を創刊する。『敗走』『競輪』『徴用老人列伝』で三度、芥川賞候補に。ほか、小説に『贋・久坂葉子伝』、評伝に『桂春団治』など。1987年没。

13.ラドリオ:1949年神保町で創業、現在も人気のある喫茶店。スペイン語で「レンガ」を意味する店名のとおり、古風で重厚なレンガ造りの建物で、多くのファンに愛されてきた。ウインナコーヒー発祥の店といわれる。

ロングインタビュー: 2018年02月02日更新

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