ダウナー系非コミュ女子の明るい仕事計画①ーコミュ障を受け入れ自分を客観視するところからすべては始まるー

私は三十路を気持ちばかり越え、ぼちぼちアラサーも名乗れなくなってきた会社員(♀)である。自他ともに認めるコミュ障(ダウナー系)だ。20代に比べたらだいぶ克服してきたものの、どだいコミュ障、所詮コミュ障。「ああ、たぶん今、相手の意図を汲み取れてない返答をしてしまった」なんて後悔は日常茶飯事だし、何かを言ってスルーされる恐怖に耐えられないから発言自体を諦めることもよくある。

昔は就職の面接だったり圧の強い(取締役などがいる)会議で、スペックの低すぎるPCよろしくガッと体温が上がったのち冷や汗が止まらなくなり、最終的に貧血で動けなくなるなんてこともしばしばあった。対面していた方にはよほど大丈夫じゃない子に見えただろう。懺悔したい。
 
「交流会(笑)」なんて称される類の、知らない人ばかりの飲み会は、得るものより失うもののほうがよっぽど多そうだからまずもって顔を出さないし、稀に何かのしがらみに巻き込まれて顔を出したとして、挨拶に毛の生えた程度の会話しかしてない相手から用もないのに呼吸するようにFacebookの友達申請が来ると身の毛がよだつのだ(逆に、いい話をさせていただいた相手に申請をもらえれば勲章のように思えるが)。

もしもそれがコミュ力だというなら、リア充側の人は頼むからこちら側の人間の怯えを察してほしい。ひとつのコミュニケーションで何かを失うかもしれない、もしくはこの場は丸ごと切り捨てるつもりで挑もう。コミュ障は常にそのくらいの覚悟でコミュニケーションを取っている。
 

全国の働く"隠れコミュ障"たちにこの小文を捧ぐ


そんな私も、社会人を10年ばかりやってきた中で随分マシなコミュ障にはなった。まあ、何事にも乗り越え方はあるのだと実感できる。とはいえコミュ障は治るものではなく、対処療法でしかないのだが、主に仕事の場面においてどこかで誰かが落ち込んだ際の参考くらいにはなるかもしれないと思い、自分の頭の整理の意味でも文章にまとめてみることにした(コミュ障は話すより書くほうが得意なケースが多いだろう)。
 
それに何より、この年になって周りを見渡す余裕ができてくると、程度の差はあれ世の中には意外とコミュ障が多いように感じる。表面的には乗り切っていても、日々コミュ障ならではの後悔や不安に苛まれてる人はいるのかもしれない。そんな隠れコミュ障の目に、この思いのたけを綴る文が触れる機会があるなら、私としてはちっぽけな満足感を得られそうである。
 
社会人になって最初の数年。私はコミュニケーションが苦手な自分を分かっていなかった。これは苦しかった。学生の時分は成績のいい方だったから自信はあったのだろう。なのにどうも発言ができない。相手の顔色をうかがいすぎて思考が停止する。会議は上手に話せる人に任せたい。自分の失敗なんてどう上司に報告したものか想像がつかない。どんな反応をされるか読めない話はできるだけ先延ばしにしたい…。

とりたてて仕事ができないはずはないのに、同期のあの子に比べて、なんでこんなに私は地味な仕事ばかりなのだと疑問だった。違いを観察してみると、彼女は先輩や上司に質問したり、自分のアイディアを投げかけるのがうまかった。否定されたり馬鹿にされることをなぜ恐れない…。不思議で仕方なかったが、できないものはできなかったし、その眩しさが辛いのか会社には苦手な相手が多かった。それはつまり、自分は社会人として劣っているということなのだろうかと思い悩んだ時期もあった。
 
それがあるとき。といっても数年前の、まさに30の大台に乗るか乗らないかくらいの頃だが、とある人に言われたのだ。「コミュ障だよね」。もちろん深刻に蔑まれたわけではなく、至ってライトなトーンである。そもそも誰が言い始めたのか、「コミュ障」という絶妙なワーディング。「料理ができない」くらいのどうでもいい欠点として聞き取れなくもない。

そうは言っても言われたその場では内心ちょっと反発も感じたのだが、「あれ、私ってコミュ障なのか」と悟ったことは大きかった。言語化されることで、解決方法もありそうな気持ちになれたのだ。言葉の軽さも手伝って、ガチガチに縛られていた「社会人なんだから、うまく喋らなければ」のプレッシャーから解き放たれた瞬間だった。
 
もしあなたが、周囲に比べてコミュニケーションが拙いことで仕事力に引け目を感じているとしたら、まずは「コミュ障」という単語に自分を当てはめてみてほしい。それとコミュ障であることを否定せず、素直な心で捉えてほしい。


 

自分を俯瞰して眺められる"謙虚"なコミュ障。そういう者で私はありたい


自覚を得ると、次はコミュ障な自分を俯瞰して眺めてみる(メタ認知と言うらしい)のが面白くなる。俯瞰。これも大事だなと思う。私は比較的、自分を客観視するのが好きだ。客観視すると自分の欠点が見えてくる。欠点というのは、潜在的に自覚している場合も多いものだ。でも主観でそれを認めることを人は普通嫌う。だから、意識的に客観視してみるのだ。
心のどこかで「あー今いらないこと言ったかもしれない」なんて思ったら、その瞬間を物語のように俯瞰して見る。確かに大体いらないことを言っている。どんよりした気持ちになる。

だが、それは私がいらんことを言ったという事実でしかなく、だから私に生きてく意味がないなんて話ではない。欠点は客観的に捉えれば単なる個性だ。もちろん、その個性を客観的に見ても好ましく思えなかったり、何かを阻害すると感じるならば是正したほうがいい。とはいえ欠点が自分の存在価値を下げるなんて考えは不要なのだ。欠点を自覚している人は、欠点を埋める努力もするだろう。結果的に、欠点のない人には得難いような右斜め上な長所を生み出すことに繋がる。そのデコボコこそ、結構いい個性だ。

珈琲は苦いけど美味しい。人の持つ面白みは、周囲の人間が苦い顔をするポイントにこそあるのではないか。だからまずは「自分、コミュ障だな」と俯瞰の目線で把握してみて、じゃあその土台の上でどうなりたいか、そこから考えてみる。
 
ちなみに冒頭で私は「自他ともに認めるコミュ障」と言った。この「他」はそれなりに親しい人々のことであるが、気づいたらコミュ障キャラで人の理解も得られるようになっていた。ありがたい話だ。とはいえ第三者に対してコミュ障でブランディングしていくのは、むしろそれができるくらいのコミュニケーションを経てのことなので、いきなりはオススメしない。

コミュ障は当然、一般にはネガティブなものだ。他でもない、コミュ障を相手にした人が、それなりに居心地の悪い気分になるケースが多いからだろう。コミュ障は免罪符でないというのは、自分にも言い聞かせている。せめて謙虚なコミュ障でありたい。横暴なコミュ障なんて思われたくない。そのくらいの恥じらいは、残っている。
  
最近、特に確信を深めているのは「突き抜けて仕事ができる人は大概コミュ障」ということだ。まあ、コミュ障の私に見えてる社会なんて当然狭いだろうからそれが世界の常識と言えるかは分からないが、でもやっぱり「まじか、すっげーな、この人!驚」くらいに思わされる人は、基本的に人とのコミュニケーションに問題を抱えているように感じられる。
 
とびきりデキる人は相手の話をちょっと読みきれないタイミングでぶった切る。被せる。相手の心情を忖度…はするかもしれないが、たぶん苦手だ。それから人と目を合わさない場合も多い(気がする)。アグレッシブに行く点はいわゆる「アッパー系コミュ障」だが、おおむねコミュ障の原型が見てとれる。

コミュ力が高いからと言って「何者か」になれるわけではない


言われてみれば、それは至極当たり前なのだ。革新的な成功を収める人は絶対的に周囲と違う景色を見ていなければならない。周りの空気を読んで同調している場合ではないし、自分の信念たる部分を他人が正論で否定してきたときに、その意図を汲んで素直に礼を言うより理不尽な理論でもいいからひねり出して突っぱねるくらいの「強力なズレ」がなければ何も生み出せないはずだ。
 
もちろん「突っぱねる」というのは幼虫・サナギレベルのコミュ障にはハードルの高い話に聞こえるかもしれない。そもそもダウナー系に主張は難しい。だがコミュ障として立派に羽化できた暁にたどり着くのが、きっとその境地なのだと思う(繰り返すが、コミュ障は免罪符ではないから注意は必要だ)。
 
以前、私が個人的に尊敬してやまないコミュ障の成功者がこう言っていた。「絶対に自分の土俵に相手を乗せる」と。いやいやコミュ障関係なくそれができれば最強でしょ、と言われるかもしれない。だがこれはものすごくコミュ障的な発想である。自分の土俵の外では、コミュ障は発言はおろか呼吸すらできないのだから。事実、その成功者は客観的成功を収めているにも関わらず、表に出ることを過度に嫌っている。自分の土俵に乗せられない不特定多数の相手に向けて発信するのは恐怖なのだと推察する。
 
空気を読んで相手にとって心地いい発言を繰り出せる能力も社会において有用である。一般に頭がいいと思われる要素かもしれない。だがそういう人は、出世はできても「何者か」になることはできないのではないだろうか。コミュ力のある人は、「自分の土俵」がなくたって生きていけるからだ。幸せを掴むのも早そうだ。だがコミュ障は苦労の谷を越えて一段上の成功にたどり着く可能性を秘めている。今はまだコミュ障としては稚魚みたいな私だが、目下志すのはそれだ。コミュ障レーベルの皆々様も、せっかく素養を持っているのだ。ぜひ高みを目指そう。
 
ちなみに、こと女子に関しては、コミュ力の高い子は必然的に早めに結婚を成し遂げる可能性も高く、家庭に入って仕事の現場からは遠ざかるのかも、とこの文章を書きながら思った。

いかにもコミュ障・独身・あれこれこじらせている三十路女らしい卑屈をまぶした発想だが、畢竟、世の中はそうしてバランスが取られているということかもしれない。そんなこんなで結婚のことはさて置いて、次回はもう少しコミュ障の土俵の作り方について考えてみたい。

記事:高橋弓子(Webディレクター)
読みもの&連載もの:2017年07月03日

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