2019年04月19日更新

三崎坂のとば口にある朝日湯は谷根千に残る貴重な銭湯ー森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.8

作家の森まゆみさんによる連載。『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』を1984年に創刊、「谷根千(やねせん)」という言葉を世に広めた人としても知られる森さんが、雑誌創刊以前からこの町に"ずっとあるお店"にふらりと立ち寄っては店主にインタビュー。今回は地域に残る数少ない銭湯「朝日湯」さんへ。(編集部)

銭湯はコミュニケーションと情報伝達の場


 私が雑誌「谷根千」を始めた35年前、地域内に銭湯は15軒あったが、現在では3軒しかない。
 関西では「風呂屋」と呼ぶそうだ。江戸の頃、湯屋こと公衆浴場ができ、町の人々の清潔を保ち、癒しと休息の場となってきた。そればかりではなく、式亭三馬の「浮世風呂」ではないが、人々のコミュニケーションと情報伝達の場でもあった。銭湯がなくなると、風呂なしアパートの人が住めなくなり、木賃アパートが壊されてマンションになり、いわゆるジェントリフィケーション(低所得者層の追い出し)が起こり、金持ちしか住めない街になる。三崎坂のとば口にある朝日湯は現在、残った貴重な1軒である。
 訪ねてみると、前に話を聞いたおばあちゃん、小島ハナさんは亡くなられていた。息子さんの俊男さんに話を聞く。

「母は93まで元気でした。大正2(1913)年の深川生まれです。父が74歳で亡くなった後、母が番台に座っていました。いちばんのボケ防止だったと思います。入湯料のわけがわからなくなると、お客様に電卓を差し出して計算してもらってました」



――ご創業はいつなんでしょう。

「あまり歴史のことを考えたことがないので、さっぱりわかりません。朝日湯という名の由来も。名付け親はおそらく私の父の養父だと思いますが、詳しいことは聞いておらずでして。いまとなっては色々聞いておけばと思うのですが、残念です。

うちの先祖は田中家といって、新潟の西蒲原郡長所というところの出らしい。北海道に屯田兵に行ったようですから、おそらく農民だったのでは? 大正10(1921)年に北海道空知郡というところに本籍が移っています。父は小島三日男(みかお)という珍しい名で、明治39(1906)年の生まれです。貧しいので、遠縁の谷中の小島家にもらわれて風呂屋の後継ぎになったんです」

――銭湯の場所はずっとここですか。

「いえ、戦前にはもう少し坂上の反対側にありました。和菓子店「日暮」のところですね。あのうちの田辺さんが建て直す時に、風呂屋の土台が出てきたと。そもそも田辺さんのところも、道の反対側の谷中小学校の辺にあり、戦争で爆弾が落ちたためでしょうか? 反対側に移った。うちがここに移ったのはもっと早い。ここは新幡随院というお寺の本堂のあったところなんです。ご存知の、三遊亭円朝の怪談話「牡丹灯籠」に出てくるお寺。藍染川、つまり今のへび道まではその寺でした」

――川だから、蛇のようにくねくね曲がっているのですね。これをへび道というのも、私たち谷根千が雑誌に載せてから広まったものです。今はすっかり元の川沿いに店屋ができて、観光スポットになりました。
 新幡随院の話、聞いたことがあります。昔、歌舞伎などで「牡丹灯籠」をやるときは、役者たちが祟りのないように、そこにある主人公のお菊と腰元のお米の墓にお参りに来たって。

「そうなんです。父はまあ、1906年生まれですから、1926(昭和元)年ごろに徴兵、二等兵からやって、帰ってくると子供を作りまた出て行く。最後は軍曹でした。父は思い出したくないのか、戦争の話は一度もしませんでした。南方の方に行ったらしいんですが。私の上にもう82の姉と78の兄がいます。私は1945(昭和20)年生まれなので、73で次男です」

――どんなお父さんでしたか。

「いや、厳しい人でしたよ。でも戦争末期の空襲の頃はもう父も40代、兵隊に行く年ではなく、一家で山梨に縁故疎開していましたから。もう、風呂屋どころじゃなかったんじゃないですか。疎開先はこの建物を建ててくれた大工さんの実家なんです。それでも土地の人の手前、母は相当苦労したようです。私は1945年の3月11日に疎開先で生まれました。東京大空襲の1日後ですね」

――谷中あたりは3月4日に大きな被害を受けていますね。

「ええ、これも郷土史に熱心だった田辺さんが持ってきてくれたんですが、空襲の後の写真に、半分くらい壊れたうちの建物が載っていました。だから戦後の銭湯再開も容易ではなかったと思います」

――子供の頃のこの辺はどうでしたか。

「三崎坂も自動車なんて滅多に通らなかったから、道にチョークで絵を描いて遊んだりね。一方、小学校の頃から番台に座ったり、薪割りだの、いろいろ手伝わされましたよ。今は都市ガスで沸かしてますが。特にね、リアカーで薪や重油を取りに行くのに、坂なので、後押しをしろと親父がいうんです。勉強なんかしなくていいからと。そうすると近所の同級生とかが見るでしょ。それが嫌でしたね」



「家のそばに銭湯がなくなったので、おたくのそばに越してきた」というご老人も


――次男なのにお家を継がれたわけは?

「長男はもう早くにこんな商売は嫌だと家を出て行って、勤め人になりました。僕も大学に行って、ゼミの先生が就職先を世話してくれるはずだったんですが、母が一人で番台を守っているのを見たら、ほっておけないような感じで。夏は湯気が来て暑いですし、冬は後ろから冷気が這い上る。こんな商売に嫁いで来てくれた妻が後はしっかりとやってくれました。
 銭湯の仕事は朝早くから夜遅くまで、長時間労働です。夫婦二人でやっていたから、とにかく休めなかった。今は妻は引退、息子が中心で、バイトの方を頼み、私は3分の1くらいかかわっています。まるきり仕事がなくなるとボケますからね。でも数年前にちょっと難病にかかって、今は病院通いやリハビリに時間を取られています。もともと体が強くないんで」

――周りの銭湯がなくなると、お客さんは増えるんじゃないんですか。

「それが不思議なんです。たしかに他所様が廃業すると一時的に増えます。ところがまた減る。これはその方達がこの街で生きられなくて、他所に越すからではないか、と思いますね。たしかに、家のそばに銭湯がなくなったので、おたくのそばに越してきた、というご老人がいらっしゃいますもの。
 行政はそれなりの援助はしてくれます。ただ、大規模修繕などにお金が出るわけではありません。屋根を直したり、配管を直したりするのは何百万、時には一千万を超えますが、そんな投資は怖くてできません。いつまで続く商売かわからないんです」

――では廃業もお考えになったことは?

「実はいつやめようか、という毎日でした。ところが3・11の前後にバタバタと近所の銭湯がやめてしまい、やめるにやめられなくなった。チャンスを逃しました(笑)。谷中側では初音湯さん、世界湯さん、それに根津の山の湯さん。東京でも震度5はあった、それで煙突が壊れて廃業されました。そうすると、お客様が頼むからやめないでくれとおっしゃいます」

――やめる理由はなんでしょう。

「まあ、経営者の高齢化でしょう。それと人手不足」



日替わりの薬草湯をやっています。届け出をして民泊も始めました


――でも一方で、若い人に銭湯好きが増えました。いつも手ぬぐいと石鹸を通勤カバンに入れておいて、遠くの銭湯に入って歩く人もいます。

「そうですね、そういう方もたしかに増えています。こういう、ぬくもりがある空間が好きだという方もいます。昔は従業員も多くてね。女湯には、お母さんが赤ちゃんや子供を連れてくる。私が大学生の時でも、赤ちゃんのベッドは5つあって、いつも埋まってしまうので、脱衣籠の中に入れ、それでも足りないと、私が番台で抱いていた。赤ちゃんを洗った後、番台経由でお父さんの方に手渡し、お母さんは自分が洗って出てくる、というようなこともありました」

――私も5つくらいまでは動坂の町の銭湯、松竹湯に行き、女中さんにシッカロールをはたいてもらうのが楽しみでした。籐で編んだ脱衣カゴで一寸法師ごっこをしたり、お風呂上がりに扇風機の前に立つのも気持ちよかった。金魚のいる池があったり、背景画の富士山なども子供の目でしっかりと覚えています。

「銭湯は町の社交界でもあり、お互い背中を流しっこしたりしましたね。怖い仕切り屋のお年寄りが、子供に走るなとか、湯をうめるなとか、水をバシャバシャ跳ねかすなとか、いろんな躾もしていました」

――これから銭湯はどうやって生き延びていくのでしょう。

「うちでは息子がいろいろ考えてね。毎日、薬草湯をやっています。昔は人参実母散だけでしたけど。硫黄分の強いものは配管を錆びさせるのでできません。いろんな薬湯をやってますね。北海道の二股ラジウム温泉とか、岐阜県の奥飛騨温泉とかから湯の花を直接送ってもらってます。そして玄関のロビー脇でマッサージもやっています。そして、こんな広い家を遊ばせるのはもったいないというので、ちゃんと届け出をして民泊も始めました」

――谷中の木賃アパートをリノベーションして宿泊施設にした「hanare」にもシャワーはあるけどお風呂がないので、銭湯の券を出してますね。外国人のお客さんが、朝日湯さんにくるのではないですか。

「週に数人見えますね。銭湯で日本文化を体験してもらいたいということです。みなさんマナーもいいですし」

――ところで、町のお仕事もされましたか。

「前は、大園寺の谷中菊まつりでは菊の仕入れ係で、すし乃池の大将、野池幸三さんと江戸川のほうまで菊の仕入れに行きましたね」

――ここの銭湯(女湯)の背景画はヤシの絵ですね。

「30年ほど前に建て替えるとき、ペンキ絵はすぐカビが生えたりするので、タイルにしたんです。どんな絵がいいかな、と考えてた時に、たまたまヤシの絵のジグソーパズルを見て、これだと」

 タイルの床が磨かれて、気持ちよかった。やっぱりマンションの窓のない狭い風呂より、広いほうが気持ちいい。家に風呂があっても、たまには銭湯に来たい。朝日湯さん、いつまでも続けてくださいね。



取材・文:森まゆみ

当連載のバックナンバー

森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.1ー創業67年。町中華の「オトメ」はだれでもふつうに扱ってくれるー
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.2ーモンデール元駐日米大使も通った根津のたいやき
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森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.4ー若い二人が引き継いだ「BAR 天井桟敷の人々」には悲喜こもごもの物語がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.5ー中華料理「BIKA(美華)」のご主人がポツリと話す根津宮永町の昔話
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.6ー鉄道員から役者、そして寿司屋へ。すし乃池の大将の人生には花と町がある
森まゆみの「谷根千ずっとあるお店」vol.7ー5代続く骨董店「大久保美術」の心やさしい、ゆとりのある家族経営


Profile:もり・まゆみ 1954年、文京区動坂に生まれる。作家。早稲田大学政経学部卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人をつとめた。このエリアの頭文字をとった「谷根千」という呼び方は、この雑誌から広まったものである。雑誌『谷根千』を終えたあとは、街で若い人と遊んでいる。時々「さすらいのママ」として地域内でバーを開くことも。著書に『鷗外の坂』『子規の音』『お隣りのイスラーム』『「五足の靴」をゆく--明治の修学旅行』『東京老舗ごはん』ほか多数。

谷中・根津・千駄木に住みあうことの楽しさと責任をわけあい町の問題を考えていくサイト「谷根千ねっと」はコチラ→ http://www.yanesen.net/



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